金史卷一百 列傳第三十八 完顔伯嘉

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  • 字は輔之、北京路の人。明昌二年(1191年)進士、中都左警巡判官として孝懿皇后の妹晋国夫人の家奴の不正を追及し、章宗の姨への対応でも豪右を退けた。監察御史として布薩揆を弾劾する剛直さを示し、莒州刺史として飢寒による窃盗を見抜く明察さを持った。
  • 貞祐初め震武軍節度使兼宣撫副使、山西の恢復に向けた完顔琢の招募活動を評価し支援したが、後に琢の暴走を巡って沃哷哈達との対立が生じ、伯嘉が箠楚を加えたとの訴えもあった。宣宗は「私忿で国事を廃してはならない」と調停した。歸徳府知事、簽樞密院事、河南府知事を歴任し兵食対策で棗栗菜根の徴収を提案。
  • 御史中丞として、阿爾巴斯の潼関逃亡事件を厳しく弾劾(将たる者の道義を説く)、旱害を人事の誤りに帰す議論、髙琪・汝礪への批判を含む発言を重ねた。山寨避難策への反対(陳後主の故事を引用)、河東放棄論への強い反対(「河東を失えば失地の回復は容易でない」)を展開し宰執の意に大いに逆らった。
  • 軍功による官爵の乱発への懸念、河北・河東の民の招撫策、鹽池の重要性を説く上奏を行った。元光元年(1222年)言事過切で降格、二年(1223年)参知政事として河東奪還に従軍中に病を得て薨去。純直で時流に阿らず、髙汝礪との対立が多かった。関連して完顔琢は范鐸の失策により部下の徳用に殺害される事件が起き、鐸は誅された。