金史卷一百 列傳第三十八 路鐸
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- 字は宣叔、路伯達の子。明昌三年(1192年)左三部司正から拾遺、盧溝河決壊対策を建議。景明宮巡幸への諫止に加わり成功。完顔守貞の復用を強く主張し、丞相を梁冀に例えた発言で世宗(章宗)に「周昌が高祖を桀紂に例えても許された」と擁護されつつも議論を招いた。承安五年(1200年)再度景明宮巡幸を諫止、姫端修事件では御史大夫張暐との連携が問われ処分を受けた。
- 楊伯通引用鄉人事件の弾劾でも処分を受けたが、後に泰定軍節度副使、東平府治中、景州刺史を歴任、十二訓を著し州郡に頒布させた。陝西路按察副使を経て翰林待制、貞祐初め孟州防禦使として城陥落時に沁水に投身自殺。剛正で台諫を歴任、直臣の風があり、文は竒を尚び詩篇は温潤精緻、『虚舟居士集』を著した。