金史卷九十九 列傳第三十七 李革

段階

  • 字は君美、河津の人。父餘慶は三度の廷試に失敗し受験を断念。革は穎悟で記憶力に優れ、大定二十五年(1185年)進士、韓城令として富商の贈賄を拒絶。泰和六年(1206年)伐宋の際に官員の実態調査を担当。刑部員外郎、陝西西路按察副使、大興府治中として権臣図克坦南平の誘惑を拒否した清廉さを示した。
  • 貞祐三年(1215年)戸部侍郎、宣宗の南遷に伴い河北西路六部事、開封府知事、戸部・吏部尚書を歴任。参知政事として断例・勅条の恣意的引用を禁じる律優先の原則を建議し採用された。潼関失陥の責を取り致仕を願うも許されず絳陽軍節度使に降格。
  • 興定元年(1217年)河東行省として、伐宋策への慎重論を上書(休兵息民を主張)したが容れられなかった。平陽の食糧危機に対処、耕地の刈り取り中止を進言し容れられた。興定二年(1218年)平陽包囲下、兵力不足の中で奮戦し、援兵が至らず自ら「城を守れなければ天子に見える顔がない」と自殺した。尚書右丞を追贈された。

史論

  • 『左伝』に「君子の言はその利溥し」とある。図克坦鎰の一言で宣宗の擁立が成り、その功は大きい。賈鉉・孫鐸は共に旧臣であるが、鉉は久しく致仕し、鐸は忤旨により衞王に用いられなかった。図克坦鎰もまた外官に留められた。孫即康のみ詭随して驟かに宰相に至った――古人のいう「斗筲の人」とはまさに即康を指すのであろう。鐸の李新喜論は漢の耿育の言に似て見識がある。貞祐の執政李革は君子と称するに足り、その進退の際には古人の宰相としての風があった。