金史卷九十七 列傳第三十五 賀揚庭
段階
- 字は公叟、曹州濟隂の人。天徳三年(1151年)経義進士、剛果な性格で世宗に南人と漢人の吏の気質差を語る対話がある。刑部侍郎、山東東路転運使を経て明昌初め提刑使、疾悪纎介少容の性格で提刑使の職を批判した。飢饉対策の実施で治声を得、致仕許可、享年六十七で卒去。
史論
- 費摩亨は進士出身で唐虞の治道を宮庭で説き、中貴梁道兒の姦を斥けた。沃哷忠は吏道により権貴に交わらぬ姿勢を貫いた。張大節は独り正を守り海陵の遼東改元時に赴かず、韓錫は皇族の不法を法に照らすよう諭された。巨構は骫骳(追従気味)、賀揚庭は骨鯁で、大定期の南北士習の優劣がここに窺える。張亨は始め繆庸と見られたが晩年評価され、鄧儼は謀身に専念し致仕後も求進を続けた。