段階
- 字は仲顕、冀州の人。沈厚で遠識に富み博学能詩、正隆五年(1160年)進士。大定二十四年(1184年)世宗の上京巡幸を諫めた上書を提出。祕書郎兼太子司経として章宗の侍読に選ばれ、尚書禮部員外郎兼翰林修撰として賀天寿節の日程変更を諫止。刑部郎中として本業重視(採獵禁令の緩和・農桑の勧奨)を提言。刑部侍郎、太常卿を経て安国軍節度使、鎮安武軍節度使を歴任。宋使として得た金銀を辺境援助に充て、致仕を上表するも上程前に卒去。妻傅氏の言により誠意を評価され、太中大夫を贈られ、金銀は返還されたが傅氏は辞退し、後に冀州学の田を購入して寄進した。世宗はこれを賢として成徳夫人の号を賜った。子鐸・鈞のうち鐸が最も知られる。
史論
- 金は宋を屈させ姪と称させ歳幣を受けたのは礼であったが、宋への聘使の饗宴での重賂の受納は如何なものか。当時の人は利を貪り礼を忘れることを常としたが、誰もそれを非と知る者がなかった。路伯達だけがその非礼を明らかにし、饋物を返還し、志半ばで卒したが妻の傅氏がその志を成し遂げた。士大夫が世俗に溺れる中、この夫婦の秉心の烈しさは恥じ入るべきものである。成徳の号を賜ったのも当然であろう。