金史卷九十六 列傳第三十四 李晏

段階

  • 字は致美、澤州髙平の人。皇統六年(1146年)経義進士、中牟令として海陵の汴京木材運搬事業の失敗を改善し民の便を図った。応奉翰林文字として世宗に厚遇され、髙麗冊封使、翰林直学士に至る。世宗が「翰林の旧人は少なく新進士は学が足りない、詔勅を書ける者を選べ」と諮問し李晏が召された。母の老いで一時外任を求めるも起復し翰林直学士に復帰。
  • 世宗との対話で県令闕員問題(詞賦一科への限定が原因)を分析し、取人数の制限撤廃を実現。吏部侍郎、中都路推排使、翰林侍講学士兼御史中丞として剛正さを世宗に評価された。錦州龍宮寺の二税戸を良民に釈放させる建言、黙音家の質券奴隷問題の是正を行った。宋への正旦国信副使、世宗崩御時の詔冊文を全て起草。
  • 章宗即位時に十事(風俗の奢僭是正、遊手禁止、鋳銭停止、上戸管庫免除、礼楽興隆、租税軽減、鹽価軽減、監官陪納虧欠免除、経久遠図、寛大な禁網)を上疏。禮部尚書兼翰林学士承旨、致仕を経て沁南軍節度使、昭義軍節度使に再起用。明昌六年(1195年)致仕、子仲略が澤州刺史として侍養、承安二年(1197年)薨去、享年七十五、諡は文簡。