金史卷九十五 列傳第三十三 張萬公

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  • 字は良輔、東平東阿の人。父弥学の夢兆から命名された。正隆二年(1157年)進士、長山令として土寇を鎮め生祠を建てられた。尚書省令史から侍御史、右司員外郎を歴任、丞相図克坦克寧に「後継者」と評された。刑部侍郎、南京路提刑使として治績最良、御史中丞、彰国軍節度使を経て明昌二年(1191年)大興府知事、参知政事に至り母への孝養を願うも許されず。
  • 山東河北の粟価・苗稼の実情を報告し、旱害の責任を宰臣が引き受けようとした際「臣らの罪」との議論に対し「聖人の言行は天地を動かす」と修徳を説いた。李邦乂の上封事事件で先朝譏斥の是非を論じ、免罪を実現させた。河中府知事として軍興の調発を寛大に処理し、去思堂が建てられた。平章政事・壽国公。李淑妃の立后問題では御史姫端修が上書し処罰された事件があり、萬公は沈厚で衝突を避けつつ帝の問いには利害を審らかに答えた。
  • 壕塹開築の是非を巡り「勞民の久しきは和気を傷める」として中止を主張、これは丞相襄の代に強行され民の苦しみを招いた。屯田拡大策(民田の括収)にも五つの不可を挙げて反対(民力への負担、通検の不備、浮費の存在、兵士選別の不備、民心離反の懸念)、召民耕種案を代替として提示。天陰の原因を人事の邪正に帰し、小人として張煒・田櫟・張嘉貞を挙げ外任させた。
  • 泰和年間、致仕を再三願うが章宗は「先朝の旧人、練達な典故を重んじる」として慰留、六年(1206年)南鄙用兵に伴い山東の鎮撫を託され、飢饉対策(度牒・塩引の売却)を献策。宋の請和後致仕を許され、泰和七年(1207年)薨去、諡は文貞。淳厚剛正、章宗が司空襄との対話(秋山の楽から春蒐への意欲)を萬公が「動より静を」と諫めた逸話がある。輔政八年、廉譲の士を多く薦挙した。大安元年(1209年)章宗廟庭に配享。