段階
- 字は履道、遼東丹王托雲七世孫。族兄興平軍節度使徳元の養子となり、幼くして詩才を評された。博学多芸、進士試の煩瑣な検査を嫌い辞退し廕補で承奉班祗候となる。世宗が儒術を興し経史翻訳を詔した際、国史院編修官に抜擢。世宗との対話で「忠諫の士は代々いるが用いる者がいるかどうかによる」と論じた。女直進士科の試策制度を定める議論を主導し、世宗を大いに悦ばせた。
- 応奉翰林文字、修撰を歴任、章宗(金源郡王時代)に春秋左氏伝を問われ「左氏は権詐に長け純ならず、尚書・孟子こそ聖賢純全の道」と答えた。司馬光の古文孝経指解を進献し、薊州刺史を経て翰林待制、尚書禮部侍郎兼翰林直学士に至る。世宗崩御の際、遺詔の梓宮移送を巡り「非礼」と一人反対し、大安殿での殯を実現させた。
- 禮部尚書、参知政事、尚書右丞を歴任、河決の議論で春秋の記述の欠落理由を説明。明昌二年(1191年)六月、享年六十一で薨去(誕生日と同日)、諡は文献。秀峙で通悟、暦算・書画に優れ、旧大明暦の誤りを正し乙未暦を上程した(金は乙未の年に受命したため)。徳元の跡取りとして養われたが、後に実子震が生まれると家貲を悉く譲った。学士院への寄付の先例を作り、学者に称賛された。