金史卷九十三 列傳第三十一 宣宗諸子

概要

莊獻太子守忠

  • 宣宗の長子、母は詳らかでない(王后伝参照)。呼沙呼が衞王を廃した後、東宮に迎えられ、貞祐元年(1213年)皇太子となる。宣宗は倹約と読書を諭した。二年(1214年)南遷に伴い召還、三年(1215年)薨去、諡は莊獻。その子鏗が皇太孫となるも二歳で同年薨去、諡は沖懐太孫。

𤣥齡

  • あるいは莊獻太子の母弟とも、あるいは麗妃史氏所生ともいわれ、早くに卒し封爵はなかった。

荊王守純(本名帮圖)

  • 宣宗第二子、母は真妃龎氏。貞祐元年(1213年)濮王、二年(1214年)殿前都点検兼侍衛親軍都指揮使権都元帥。世宗は帥府に「濮王は年幼く公事に未だ詳しくない、規戒せよ」と諭した。三年(1215年)樞密使、四年(1216年)平章政事、興定元年(1217年)世襲東平府路三屯明安を授かる。丞相髙琪の罪を暴こうとした密議が漏れ、逆に部下が処罰された事件があった。元光二年(1223年)宣宗に飲酒・政務怠慢を戒められた。宣宗崩御時、東華門の兵権を巡る混乱があったが、哀宗が即位。正大元年(1224年)荊王に進封、後謀反の疑いをかけられるも皇太后の言により免れた。三子(額爾克・戴王・鞏王)あり、天興元年(1232年)額爾克は曹王に進封し軍前に質として送られた。天興初、府第に不吉な兆し(肉芝・狐鳴)が続き、翌年崔立の乱で守純及び宗室は皆青城で死んだ。

史論

  • 詩に「天は忱み難し、王位を維持するは易からず」とある。守忠は太子となって間もなく薨去し、その子鏗も薨じ、哀宗もまた嗣に乏しかった。これは天意であろうか。正大以降、国勢は日々窮迫し宗室は殆ど尽き、哀宗はなお骨肉を疎んじ猜疑した。明恵ならぬ賢でなければ荊王も免れなかったであろう。宗子が藩屏となる道とはこのようなものであったか。

附伝:通吉思忠(本名遷嘉努)

  • 明昌六年(1195年)行省都事から樞密院事、興平軍節度使、西北路招討使を歴任。大定間の西北屯戍増築を戍兵のみで完成させ民を煩わせなかった功で褒賞を受けた。泰和五年(1205年)宋の渝盟の兆しを見抜き、崇浩の楽観論に対し「宋は久しく力を失うが忘れてはいない」と警告、六年(1206年)伐宋議論でも早期対応を主張し宣宗(当時章宗)に容れられた。楚州攻略で自ら出陣を願うも用いられず。大安三年(1211年)承裕と共に烏沙堡防衛に失敗し解職、衞紹王は承裕に行省を命じたが後に会河堡で大敗した。

承裕(本名和碩)

  • 宗室、符宝祗候から中都左警巡副使などを歴任、法律に精通し治劇の才があった。泰和六年(1206年)伐宋で陝西路統軍副使として秦州を守り、宋の呉㬢の五万の軍を完顔璘と共に千余騎で撃退し斬首四千余級。詔で「叔父・父が戎旅に尽力したように」と激励され、赤谷での宋軍撃退、成州攻略に功があった。大安初め御史中丞から参知政事、烏沙堡の役で失敗の責を負い、承裕が兵事を主管することとなったが、野狐嶺での大敗(守禦せず退却)を招き、会河堡でも大潰した。「金の亡は決してこの一戦にあり」と評された故事がある。除名処分に留まったが、後崇慶元年(1212年)陝西安撫使に復帰、遼東宣撫使などを歴任し貞祐初め卒去。

史論

  • 曹劌は「一鼓作氣、再而衰、三而竭」と言った。兵は気を主とする。会河堡の役で通吉思忠・承裕が意気阻喪し振るわなかったこと、金の亡国の兆しはここに始まった。

布薩揆(本名臨喜)

  • 上京の人、左丞相兼都元帥沂国武荘公忠義の子。大定十五年(1175年)韓国大長公主の駙馬となり、近侍局副使などを歴任、章宗即位後に泰定軍節度使などを歴任。剛直明断で獄に冤滞なく、積石・洮州の旧寇を鎮めた功で明昌四年(1193年)進官。鄭王永蹈の逆謀連座を免れ、後西北路副招討として戦功を重ね、韓国大長公主薨去後も北辺の築塁で九百里を完成させ北辺を安定させた。
  • 泰和五年(1205年)宋渝盟に宣撫河南軍民使として任じられ、宣宗に「先丞相も南辺で効力した、今また委ねる」と信頼された。汴に至り将士を訓練し、宋の攻勢(泗州・霊壁・寿春)に対処し右副元帥として敵を退けた。八年(1208年)宋の請盟後、南伐総司令として九路に分けて出兵、淮を渡り安豊軍・合肥・滁州を攻略。上の詔諭で「渡江の勢いを示せ」と鼓舞された。和州包囲・真州攻略などの戦功を重ね、宋の陳璧の和議申し出を却下、雷塘の水を決して敵の輜重を焼き払わせた末に撤兵。
  • 帰途、下蔡で発病、泰和七年(1207年)二月薨去。宣宗は輟朝し厚く弔い、諡は武肅。剛にして内和、恵政を敷き、軍門は静粛で賞罰を厳正に行い、輜重の負担を軍に強いず民から糧を得ることを避けた将であり、一代の名将と称された。

穆延薩克逹

  • 臨潢路の人、世襲穆昆。泰和六年(1206年)南征で符離・彭城を守る要地宿州の防衛に功、布薩揆の作戦下で宋の李爽・田俊邁らを撃退。安豊軍・霍邱・花靨での戦功も居多。十二月、和州攻めで流矢に当たり戦死。長槍と手箭の名手として知られ、独自の技法を編み出し敵に「神」と恐れられた。

内族宗浩(字師孟、本名老)

  • 昭祖四世孫、太保兼都元帥漢国公昂の子。世宗即位時に父の使者として賀を伝え符宝祗候。同知陝州防禦使事などを歴任、廉能第一等で評価を重ね、大理卿、山東路統軍使兼知益都府事に至る。宋への使者を務め、参知政事、章宗即位後は北京留守などを歴任、北方防備に佩金虎符。北部光嘉喇の脅威に対処し、他の意見(凖布討伐を優先)を退け「光嘉喇を先に討ち凖布を討つべき」と献策、実行して大破。哈逹濟・占楚琿らを降し、博斯和の来附を得た功で光禄大夫に進む。
  • 東北路招討司を金山に移す提案が採用され、中都・山東・河北の屯駐軍地の民占田の整理を行った。西京留守、樞密使、尚書右丞相に至り、北辺の壕塁構築を独断で断行し完成。薩里部長図古勒の侵入を撃退。左丞相に進み、宋の背盟(韓侂胄の主導)に対し都元帥兼任として督戦、方信孺の和議申し出を「輕佻不可信」と見抜き拒絶。
  • 宋の錢象祖・張巖との詳細な外交往復(誓書・歳幣・関隘の返還・韓侂胄の首級の要求など)を主導し、最終的に宋が侂胄・蘇師旦の首を送ることで和議成立に至った。泰和七年(1207年)九月、汴で薨去。子恬霞努が喪に赴き、南京副留守張巌叟を勅祭使、鈕祜禄布格蘇を勅葬使として厚く弔われた。諡は通敏。

史論

  • 金は宗弼の渡江以来、淮を境とした。海陵の挙兵、世宗初・章宗末の南事はいずれも已むを得ざるものだった。侂胄の狂謀は誤国であり敗れて当然。揆・宗浩は常に勝利を収めた将、薩克逹は驍勇の将であったが、三者相継いで死し、和議もまた成った。これは天意が南北の民を休ませようとしたものであろう。