段階
- 金源県人の後裔、山東萊州に籍を占める。父和珍は汾陽軍節度使。資質渾厚で寡言、騎射に優れ女直・契丹字に通じた。左丞相希尹の甥。熙宗が希尹に外戚の侍衛適任者を問い克寧が推薦された。悼后専政時、弟が侮辱を受け毆打した際、悼后は「錫馨は剛直、必ずお前の非だろう」と評した。侍衛親軍馬歩軍都指揮使、忠順軍節度使を歴任。宗幹の女嘉祥県主を娶り、同母兄富勒堅の讒言に連座し海陵により西京留守を降格されたが、大定初め左翼都統として契丹討伐に功を挙げた。
- 長濼・霧濼河の戦いで、大軍が至らぬ中で寡兵を率い奮戦し勝利を導いた。太原尹として陝右で呉璘の侵攻に対応、益都尹兼山東路兵馬都総管として楚州の魏勝との攻防戦で、部下錫黙和尚らの水軍作戦により宋の防御を突破、魏勝を斬り楚州・淮陰県を奪取した。この功で宋との和議(世叔姪国、海泗唐鄧四州割譲)が実現した。
- 大名尹、河間・東平尹、都点検を歴任、樞密副使、平章政事、密国公に至る。娘が瀋王妃となり罪を得たことで一時致仕を求めたが、後に南京留守兼河南統軍使として復帰、右丞相に至り譚国公を辞退しようとしたが世宗に留められた。世宗は「錫馨は樞密にあって過挙なし」と称賛。左丞相として尚書令位を守道と交代しつつ長く維持した。
- 熙宗実録編纂の直筆を評価され、司徒兼樞密使、致仕を再三願うも世宗に慰留された。二十五年(1185年)、左丞相守道が北部で宴に赴く間、克寧が左丞相事を代行。皇太子(顕宗)薨去の際、宮門の警護を厳格に維持し、宗室外戚の弔問を秩序立てて執り行った。章宗(当時金源郡王)の哀毁過度を諫め、太子侍読完顔匡に補佐を命じた。
- 世宗の上京巡幸中、克寧は金源郡王を皇太孫に立てるよう表を上奏(社稷安危に関わるとの論旨)、聴許された。太尉兼左丞相、原王(章宗)を右丞相とし補佐した。銭幣政策への提言も採用された。太孫の位を正すことに尽力し、世宗は「克寧は社稷の臣」と評した。世宗崩御に際し章宗即位の宣告を主導、太傅兼尚書令に至り致仕を願うも許されず。
- 明安穆昆の武備を軽んじる風潮を戒め、「万一の変事に備えるべき」と説いた。神仙・仏図への傾倒を戒める発言、宋の遺留物の薄礼を指摘するなど、世宗・章宗二代にわたり重んじられた。世宗崩御の際、皇太孫への政務委任について詳細に助言。明昌二年(1191年)病篤くなり、章宗が見舞い、太師・淄王に封じられ、同年二月薨去。遺表で「君子を重んじ小人を遠ざけるべき」と諫言を残した。萊州に葬られ、諡は忠烈。明昌五年(1194年)世宗廟廷に配享、後大安元年(1209年)章宗廟廷に改配享。
史論
- 圖克坦克寧はまさに大臣といえる。功高くして身はますます謙り、位盛んにして心はますます労した。『易経』に「上に在りて驕らず高くして危からず」「節を制し度を謹めば満ちて溢れず」とあるように、これが富貴を長く守る所以である。忠信にして懈らず功を誇らないのは徳の上乗、孜孜として職業を守るのは次であり、諫言が必ず行われ言が必ず聴かれ功を挙げるのはまたその次である。