金史卷八十九 列傳第二十七 孟浩

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  • 字は浩然、灤州の人。遼末に進士登第、天会三年(1125年)樞密院令史から歴任。田㲄と共に尚書省で活躍したが蔡松年・曹望之・許霖らに讒言され朋党の疑いをかけられた。韓企先の死後、宗弼のもとで讒言により田㲄一党とされ、龔夷鑒事件に連座、孟浩ら三十四人が海上に流された(この寃罪は赦免対象外)。天徳の赦令で多くが物故する中、孟浩・田穀・王𥙷・馮煦・王中安のみ生存し、大定二年(1162年)復官。
  • 孟浩は右司員外郎に復帰、忠実な諫言で世宗の信頼を得て参知政事に至る。「中丞から執政に直に拝された例はない」と辞退したが世宗は「才能あれば階次に拘らない」と留任させた。皇太子の東宮涼楼増築を諫めて中止させた。世宗の記注不明を憂う発言に対し「良史の直筆は帝が史事に介入しないことにより保たれる」と答えた。賞罰の明示を提言し実施。尚書右丞兼太子少傅、大定十三年(1173年)薨去。
  • 田㲄は大理丞から同知中京留守、利渉軍節度使に至って卒去。明昌年間、章宗が田㲄らの寃罪を認め追復官爵を命じたが、張汝霖は先朝の裁定として反対した経緯がある。後、章宗は改めて田㲄一党の追復・子孫の恩恤を命じた。