金史卷八十八 列傳第二十六 石琚

段階

  • 字は子美、定州の人。父臯は官吏として廉潔で「長者」と称され、魯王棟摩の攻城戦で虐殺を防いだ功もあった。石琚は七歳で読書し博通経史、天眷二年(1139年)進士第一。邢台県令など歴任し、廉直で知られる。吏部尚書として十年近く典選を務め、選任法に精通し「詳明」と評された。参知政事に辞退を重ねるも許されず、右丞に転じ、十六位工役の煩民防止・不正防止に努めた。天長観の営繕費用の巨額を諫め、蔚州の采蕈役の過大負担も是正させた。
  • 世宗が郊祀の配享について問うと、石琚は歴代の礼制(唐宋の配享例)を説き「太祖一祖のみの配は古礼に依る」と述べ、採用された。太子の政事習得について「太子は天下の本」と説き猜疑を解いた。祭祀典礼における厳格さを説き、鋳銭問題では「山沢の利は民と共にすべきだが銭幣の私鋳は許すべきでない」と述べた。妖言集団(僧智究の乱)の平定を助言し、鑑識に優れた。
  • 十三年・十六年と致仕を願うも許されず、唐古安礼の忠直を挙げて召還を進言。修起居注の伊喇傑の建議(帝の言動を史官が漏らさず記録すべき)を支持し実現。老病を理由に再三辞するも留任され、平章政事、莘国公、右丞相を歴任。史官記注に関する上奏も行った。二十二年に致仕を許され帰郷、世宗は「知人の最も難きこと」を語り石琚を最も知人に長けた者として称えた。世宗は顕宗を通じ石琚の壮健さを気にかけ続けた。大定二十二年(1182年)病没、享年七十二、諡は文憲。泰和元年(1201年)衍慶宮に図像、世宗廟庭に配享。