金史卷八十七 列傳第二十五 圖克坦喀齊喀

秦隴平定の重鎮

  • 上京速蘇海水の人。父佛寧の穆昆を継ぎ、羅索の章京として重用され、天会六年功により穆昆、皇統二年隴州防禦使として寡兵で宋軍を連破(高陵・秦州・鳳翔での勝利、饒風関の防衛)、平凉・臨洮・延安尹として関陝の民心回復に努めた。天德二年元帥左都監・陝西統軍使、正隆六年西蜀道兵馬都統を経て、世宗即位の詔で「岐国(海陵)は道を失い母后を殺し兄弟を虐げた、太祖創業の艱難を思い大位に就いた、そなたの子弟もみな軍中から帰順した、そなたは国家の旧臣として天道人事を知るはず」と諭され、陝西路統軍使・元帥左都監として対宋防衛を主導した。
  • 呉璘の秦隴侵攻(散関・和尚原・徳順州包囲等)に対し、複数の援軍を編成して徳順の囲みを解き(四十余日の攻防)、再度の呉璘の大軍来襲でも、複数の将(璋・実訥埓・烏雅富埒赫ら)を統率して徳順・臨洮・鞏州・秦州を奪還し、餉道遮断の戦術で呉璘を撤退に追い込んだ。最終的に臨洮・鞏秦・河隴・蘭会原洮積石鎮戎徳順商虢環華等十六州府を全て回復し、陝西平定を成し遂げた。詔書による将士への論功行賞(明安・穆昆等の階級に応じた詳細な賞賜規定)が記録されている。樞密副使・東京留守・平章政事・定國公を歴任、大定十年(1170年)薨じ、世宗は毬技の最中に訃報を聞き罷めて厚く弔った。泰和元年世宗廟廷に配饗された。

史論

  • 賛にいう。大定初め、江淮では戦が続き契丹では乱が起きた。完顔黙音は功を恃んで怠り斡罕はますます暴虐を極め、放置できない事態であった。世宗は独断で黙音を召還し布薩忠義に討伐の任を委ね、成果を挙げさせた。「兵は将を主とし、将が賢であれば士も勇む」とはまさにこのことである。赫舎哩志寧は「詔を受けて征伐に赴くことは辞さないが、宰相となることは実に難しい」と語ったというが、宰相たることの難しさを知ること自体、賢というべきである。秦隴の兵事はまさに危急存亡の際にあったが、図克坦喀齊喀の敵情判断と臨機応変の巧みさは、これもまた難事であった。