金史卷八十七 列傳第二十五 布薩忠義

斡罕討伐と対宋和議を主導した元帥

  • 上京博勒和河の人、宣獻皇后の姪、元妃の兄。魁偉で長髯、談兵を好み大略があった。十六歳から宗輔の陝西平定に従軍し功を挙げ、宗弼の河南再定では冀州・大名府攻略に先登の功、淮渡河・壽廬攻略にも功を重ね、宗弼から「勇略は人に過ぎ将帥の器」と評された。博州防禦使在任中は公務の余暇に女直字と古算法を修め、囚人の反乱未遂を機転で鎮めるなど吏才も発揮した。同知真定尹・西北路招討使・兵部尚書を歴任、布薩呼圖への辱めから震武軍節度使に落とされたが火山の賊撃退で武名を挙げ、臨洮尹兼熙秦路兵馬都総管として海陵から「洮河は吐蕃木波に接する要地」と重用された。世宗即位後、尚書右丞に至った。
  • 完顔黙音が斡罕討伐で霧河の勝利後に掠奪に走り追撃を怠った失態を機に「小さな契丹の反乱を平定できず陛下を煩わせている、主憂えれば臣辱め、死力を尽くしたい」と自請し、平章政事兼右副元帥・榮國公として討伐を引き継いだ。和托の戦で宗亨・宗叙の軍を援護、陷泉の戦では祈祷で霧を晴らしたという逸話とともに大勝を収め(弟の諾爾を捕虜に、生口三十万・雑畜十余万を獲得)、赫舎哩志寧の反間の計を経て斡罕は完顔思敬に降った。尚書右丞相・沂國公に至った。
  • 斡罕の残党瓜里扎巴が宋に投じ宋の侵掠を招くと、世宗は忠義を丞相として南京に駐屯させ対宋戦の総責任者とした。宋の孝宗即位を機に対等な礼を求める宋側と交渉、志寧に牒文で「皇統以来の旧約に依るべき」と伝えさせた。泗州・寿州・鄧州の返還と城の破却をめぐる交渉、宿州陥落を受けた勁弓の緊急補給で戦局を挽回、和議交渉は張浚・洪遵・湯思退を経て複雑化したが(宋が「姪国」の呼称に「世」の字を加えることを拒む等)、忠義は七度書簡を交わし、最終的に宋が姪を称し歳幣二十万両匹とする和議を成立させた(大定五年正月、宋主眘の国書と魏杞の使節応対の詳細な典礼が記録されている)。和議成立後の大幅な軍縮(十七万余の兵から六万への削減)や賞賜の実施を統括し、左丞相兼都元帥に至った。大定六年(1166年)病没、世宗は自ら哭礼を尽くし武莊と諡された。礼義を重んじ謙虚に下に接し、儒士を敬い、外戚でありながら将相を兼ねて功名を全うした稀有な例として称えられ、泰和元年衍慶宮に図像、世宗廟庭に配饗された。子は揆(別伝)。