斡罕討伐と対宋交渉を担った左副元帥
- 上京和坦の人、五代祖太尉罕齊以来代々国と甥舅関係にあった家系。父薩巴は海陵から懐忠の名を賜り泰州路顔河世襲穆昆・東平尹・開遠軍節度使を歴任した。志寧は沈毅で大略があり、梁王宗弼の娘(永安県主)を娶り宗弼に最も愛された婿であった。皇統間護衛から右宣徽使・汾陽軍節度使・兵部尚書・左宣徽使・都点検・樞密副使・開封尹を歴任した。契丹薩巴の反乱で樞密使布薩呼圖ら討伐失敗者が誅された際、西北面副統として都統白彦敬とともに討伐に向かったが、海陵の伐宋が渡淮した頃、世宗の異心を察知し富色里・通吉義と結んで対抗を図った。世宗の使者九人を殺害するも、完顔黙音の攻撃を受け不戦のまま彦敬とともに降った。世宗から「正隆の暴虐で人望は既に絶えた、朕は太祖の孫として即位した、そなたは我が使者を殺し正隆に殉じもしなかった、なぜ今頃降るのか」と厳しく詰問された際、志寧は「臣らは正隆の厚恩を受けていたゆえに降らなかった、罪は万死に値する」と答え、世宗は「その初心は所事に忠であったとも言える、今後は朕に忠節を尽くせ」と赦した。
- 斡罕討伐では臨海節度使都統右翼軍として長濼で敗走する斡罕を霧河まで追撃、川を挟んだ疑兵策と下流渉渡で敵陣に迫り、矢を左腕に受けながらも力戦、敵の火計にも耐え雨が降って形勢が転じたところで大破した。福夀の代わりに元帥右監軍を務め(黙音・福夀は攻めきれず代えられた)、陷泉の戦で斡罕の母や輜重を捕獲し五万余の俘虜を得、遂に斡罕を敗走させ、降人碩和卓を利用した反間の計で最終的に斡罕自身を捕縛に導いた(実際に捕えたのは思敬軍)。
- 反乱平定後、左副元帥として対宋戦線を担当、宋の樞密使張浚との文書交渉を主導、瓜里扎巴の宋への亡命と宿州陥落を受け、精兵一万で宿州奪還戦を敢行、疑兵策で李世輔軍を誘引し大勝(俘虜・斬首多数、甲三万獲得)を収めた。宋との和議(姪国・歳幣二十万両匹の約定)成立にも貢献し、平章政事・左副元帥・樞密使・右丞相を歴任、広平郡王・金源郡王に進封された。世宗の信任は厚く、皇太子生日の宴での逸話や皇女の降嫁など皇室との親密な関係も伝わる。大定十二年(1172年)病没、世宗は自ら哭礼を尽くし厚く弔い武定と諡され、十五年衍慶宮に図像された。妻永安県主の嫉妬深さ(孕んだ妾を殺害)とその後の子孫の早世を惜しんだ世宗の逸話も伝わる。明昌五年世宗廟庭に配饗された。