対宋外交文書を担う文人
- 遼西の人。翰林待制から貞元二年の進士試験で海陵の意に忤う一件があったが、大定二年、布薩忠義の伐宋の文書作成を担当、宋との「姪国」称号に関する交渉文書を七度の往復を経て確定させた。世宗から「今の文章の名手は張景仁のような者だ、宋との書簡は事を弁え意を達し、真に文才ある士だ」と評された。宋国書の字句の平易さを校勘するなど厳密な仕事ぶりで知られ、他方で献策文書を軽率に評した際は世宗に厳しく叱責された。翰林学士兼修国史・河南尹・御史大夫を歴任、世宗から「博学の老儒として古の御史大夫にふさわしくあれ、酒に酔って軽率な失言をしないよう戒めよ」と諭された。元妃の葬礼をめぐる大睦親府事烏庫哩元忠の専断(六品官の処分を独断で決した)を弾劾し、世宗に「御史は朝廷を尊ぶもの、汝が自ら省みよ」と元忠を戒めさせた。この年薨じた。
史論
- 賛にいう。髙楨は旧功により御史大夫となり剛明を自任して糾察を辞さず、怨憎の毒に遭いかけたが、直く己を貫くことは古来難しいことである。白彦敬は大定への帰順の詔を渋ったが、世宗はなおこれを賢とした、もし久しくこの位にあれば、その深謀達論はきっと人を驚かせるものになっただろう。張景仁の儒者としての勇気は、朝廷で元忠を弾劾した際に正しく発揮された。