金史卷八十三 列傳第二十一 張汝霖

張浩の子として名を挙げた文官

  • 幼くして聡慧、貞元二年進士に及第、大興県令・礼部員外郎・翰林待制を経て刑部郎中となる際、世宗から「父太師の功に恥じぬよう励め」と激励された。太子左諭德・御史中丞として監察制度の弊(沽買で名声を得る官吏ばかりが評価される問題)の是正を進言、中都路都転運使・吏部・御史大夫を歴任した。将陵主簿高徳温の贓罪事件では宮掖の縁故に配慮した曖昧な処断案を世宗に「公正だから登用したのに」と厳しく叱責された。参知政事・尚書右丞・平章政事兼修国史・芮國公を歴任、世宗の病没に際し顧命の一人となり、章宗即位後は莘國公に進んだ。熙宗聖節の日付変更論争では「帝王の道は天下に信を示すべき、口実で改めれば不実を示すことになる」と反対したが最終的に容れられなかった。世宗の「今の人材登用は資歴に拘りすぎる」との問いに「非常な材を待つには資格に拘らないべき」と答えたが、世宗は「崔祐甫が一年足らずで八百人を推挙したがみな非常の材だったか」と反問し議論となった。明昌元年(1190年)致仕を求めたが許されず、この年十二月狩猟中の帝の下で訃報が届き、文襄と諡された。通敏で機を見た進言に長けたが、上の微意を忖度し忤らわぬ態度が「忠に似た」と評された。