両朝を支えた宰相
- 遼陽渤海の人、本姓髙、東明王の後裔。天輔中に策を献じて太祖に評価され、天会八年進士及第、太宗の東京行幸に伴う造営で衛尉卿を歴任、朝儀制定・田㲄事件(他官が連座して罷免された際)で六部事を代行し裁断の速さで才を評価された。彰徳軍節度使・燕京路都転運使・平陽尹を経て、平陽の淫祠を撤して像を水に投じ強宗の点吏を屏息させる治績を挙げた。海陵の燕京大改修・南京宮室造営を担い、貞元元年(1153年)中都遷都に際し「四方の民で中都に居を望む者に十年の免税を」と献策し容れられた。尚書右丞相兼侍中・潞王、正隆二年魯國公に至り致仕を求めたが海陵に慰留された。伐宋の南京宮室造営を再び担当し「往年の中都造営は民が楽んで従事したが、今は民力が回復していない、前回のように容易には行かぬ」と諫めたが聞かれず、伐宋の是非を問われた際も婉曲に「趙構に子がなく疎属を立てれば必ず変が起きる、兵を煩わさずして服す」と諫めたが海陵は用いなかった。海陵は宦官梁珫を通じ工事に度々干渉し、浩は抗えず妥協を強いられた。海陵が汴で伐宋を進める際、新進の千戸穆昆の人選への懸念を上奏しようとしたが取り次がれず、周福児を通じて奏したところ却って杖罰を受けた。
- 海陵弑逆後の混乱を尚書省で治め、世宗即位後は国の元老として重用され、太師尚書令・南陽郡王に至った。世宗は「正隆時の首相として匡救できなかった罪はあるが、諫言もしていたので天下は君を咎めない、政務に練達しているから再び用いる」と諭した。赫舎哩志寧ら後の名臣を推挙する働きもあった。晩年、病を得て世宗から拝礼免除・出仕融通の特別待遇を受けたが致仕を求め続け、判東京留守に転じたのち致仕を願い出た矢先に薨じた。「秦始皇は文学を用いなかった帝王ではないか」という問答で世宗の科挙廃止論をやんわり退けたという逸話も伝わる。文康と諡され、明昌五年(1194年)世宗廟庭に配饗、泰和元年衍慶宮に図像された。子は汝為・汝霖・汝能・汝方・汝猷。