宗弼の知恵袋
- 相州臨漳の人。宋の宣和年間の盗賊蜂起に応じて武芸を修め宗澤の軍に隷し、義軍七百人を率いた。宗澤死後、宗望の伐宋に際し戍軍が乱れ統制趙世彦を殺した際に推されて主となり、勤王を名目に兵を集め淮を渡り一万余の衆を得た。康王配下で楚州安撫使などを歴任後、十余万の衆を率いて齊に帰属、拱州を治めた。齊国廃止後は博州防禦使、宗弼の河南再定で山東路弩手千戸・知亳州事となった。宗弼の再度の江南攻略では南方の地理に精通していることから軍議に召され、「宗弼が親しく陣頭に立ち矢石の中でも意気自若として孫呉の兵法にかなう」と称える一方、江南諸帥について「凡将は数百里外に身を置き偏裨に決戦を委ね、小勝を大功のように誇張する、これでは士は離心し敗れるほかない」と論じた。宗弼から江南攻略の見通しを問われると「江南の軍は怯弱、秦檜は亡国の大夫、大軍で臨めば君臣ともに胆を潰す」と答え、後に果たして宋が臣を称するに至り宗弼は「知言」と喜んだ。亳州の防衛では民の助命を宗弼に願い出て容れられ、六年間の治政で亳州の民に徳とされた。武寧軍・泰寧軍節度使、歸徳尹を歴任、貞元元年(1153年)金紫光禄大夫を加えられ官のまま卒した、享年五十。