金史卷七十八 列傳第十六 劉仲誨

剛厳な諫臣

  • 皇統初め宰相の子として忠勇校尉を授かり、進士に及第、応奉翰林文字となった。海陵の厳酷な政治下でも従容と応対し評価された。大定二年待制、修起居注左補闕を経て亷問使として州県を巡察、玉田県令ら数名の賞罰を献策し容れられた。棣州防禦使では冤罪の疑いある捕縛盗賊を釈放し真犯人を後に得た。太子詹事兼左諫議大夫として東宮官の人選を厳格化させ、太子の華美な調度要求を「太子は富貴に生まれたからこそ恭倹を教えねばならぬ、朕自身も御用を妄りに増やしたことはない」と世宗に諭された。御史中丞として宋との親接礼儀交渉で「使臣は信約を勝手に変更できぬ」と宋側の要求を退けて旧儀を貫いた。東宮官として十五年近く多くの規戒を進言し、大定十九年(1179年)卒した。世宗は「朕は劉仲誨を見るたびに、切諫しようとしているように感じた」とその剛厳さを評した。