遼旧臣として金の行政を支える
- 大興宛平の人。遠祖怦は唐の盧龍節度使、以来六代にわたり遼の宰相を輩出した家系。父霄は中京留守に至った。進士乙科に及第、燕京留守判官を経て太祖の燕京平定に際し左企弓らと降り、太祖から旧職を復され左僕射・金牌を佩びた。張覺の南京留守就任時、その異心を察した太祖の命で薩布とともに宣慰にあたった。張敦固の反乱鎮圧に加わり、同中書門下平章事・知樞密院事・侍中を歴任、宗望の伐宋では州県の統治を委ねられた。天会二年、中京両路の帰順民の官民赦免を進めた。伐宋十策を上奏し漢軍都統を兼ね、燕京官員の任免を承制で行った。宗翰・宗望に「蕭何が関中に入って秋毫を犯さず図籍を接収したように、遼太宗が汴に入って車服・法服・石経を持ち帰ったように」と進言し容れられた。天会六年(1128年)五十三歳で薨じ、鄆王を追封、正隆二年例により降封、大定十五年兖國公・英敏と諡された。子は萼・筈。
- 萼は遼末に礼賓使を授かり德州防禦使などを歴任、天德初め左右宣徽使・参知政事・尚書左丞を経て沁南軍節度使・臨洮尹・太原尹に至った。正隆南伐で漢南道行営兵馬都統制、大定初め興中尹・任國公を経て順天定武軍節度使・済南尹に至ったが、素行不良・貪墨が甚だしく監察により罷免され自殺を図るも死なず、官一階を削られ田里に帰されて卒した。
- 筈は父兄とともに太祖に降り、尚書左司郎中・殿中少監を歴任、太祖崩御時の弔問使応対、元帥府での便宜従事など、金初の対外・国内政務に広く関わった。宗翰の太原包囲にも従い、天眷二年左宣徽使、皇統元年江南封冊使として臨安に赴いた際、宋人が居所に「行宮」の牓を掲げたことに対し「未だ冊命を受けていないのに行宮と称するのは非である」と訂正させ、三十余万の金珠の贈賄をも顧みず、宋人から「大国に人あり」と称賛された。行台尚書右丞相として河南官吏の粛清論に対し「今は撫定して間もない、まず人心を収めるべき、なぜ紛更するのか」と旧制維持を主張、館陶での築城案にも「今や天下一家、南北を区別してどうするのか」と反対しこれが通った。夏に賜与した河外三州をめぐる紛争でも「小州のために大信を失うべきでない」と反対、陝西の城郭修築案にも「我らは車騎に利があり城守には利がない、盟約を結んだ以上妄動すべきでない」と反対、いずれも容れられた。司空・平章政事・呉國公、行台右丞相、滕王・鄭王・曹王を歴任したが、悼后への取り入りで宰相に至ったことから海陵に鄙まれ、致仕を求めても許されず、慚愧のうちに五十八歳で卒した。子は仲誨。