大齊の傀儡皇帝
- 字は彦游、景州阜城の人。宋の宣和末、河北両路提刑から知済南府となったが、山東の盗賊蜂起に不満を抱く中、達蘭の済南攻撃を受けて驍将闗勝を殺し降伏、京東東西淮南安撫使・知東平府に任ぜられた。太宗が邦昌に代わる藩輔を求めた際、達蘭の推挙により天会八年(1130年)九月、大齊皇帝に冊立され大名(北京と号す)を都とした。母翟氏を皇太后、妾錢氏を皇后とし、辛亥年を阜昌元年とした。子の麟を尚書左丞相・諸路兵馬大総管とし、宋人からは敵国の礼で遇された。阜昌二年、都を汴に遷し、睿宗の陝西平定後は太宗からその地を張邦昌の旧封の例で豫に与えられた。伐宋策では宋の水軍配置の情報(韓世忠は潤州、劉光世は江寧)や、投降した徐文の情報(宋主の杭州逃走ルート、昌国県の船糧集積地)を元帥府に提供したが、宗翰が伐宋を主張したのに対し宗弼は「江南は卑湿で士馬が疲弊し糧儲も不足、成功は望めない」と反対、睿宗も豫の策を用いず、達蘭の軍は瓜洲まで至って撤退した。天会十五年(1137年)、豫の齊国は廃され蜀王に降封(在位八年)、行台尚書省が汴に置かれ弊政が除かれ人心を得た。豫の家属は臨潢府に遷され、皇統元年銭一万貫・田五十頃・牛五十頭を賜り、三年曹王に進封されたがこの年薨じた。
- 子の麟は宋の宣和年間に父の廕で仕官し、済南府知事として盗賊討伐に功を挙げ、齊国建国後は興平軍節度使・開府儀同三司・梁国公として諸路兵馬大総管・判済南府事を歴任、尚書左丞相にも至った。豫は麟の太子冊立を朝廷に願ったが「宋討伐に功があれば立てる」と却下され、南伐に成果を挙げられなかった。齊国廃止時、達蘭に迎えを装われ渡河中に麟は捕らえられ臨潢に遷された。後に北京・中京・燕京路の都転運使、参知政事、尚書左丞、上京路転運使、開府儀同三司・韓國公を歴任、六十四歳で薨じた。正隆間、二品以上の官が降格された際、特進・息國公に改贈された。