海陵に忌まれ非業に死す
- 熙宗の代に苪王・明安に封ぜられ銀青光禄大夫を加えられた。天德初め特進を加えられたが、海陵は太宗諸子を忌み亨を右衛将軍として謁廟時に近くに置いた(実は監視のため)。海陵から良弓を下賜された際「賜った弓は弱くて使えない」と辞したことで海陵の忌避を深め、真定尹に出された。中京・東京留守を歴任するも家奴梁遵の謀反誣告(証拠なく遵は誅殺)、広陵尹に転じた後も李老僧に監視され罪状を作られようとした。母圖克坦氏(太祖の長女烏嚕)をめぐる事件(烏嚕の発言が誣告の元となり殺害された)を経て、家奴禄錦が亨の侍妾との私通を咎められたことを恨み、老僧と謀って亨が海陵を刺そうとしていると誣告した。工部尚書耶律安礼らの鞫問で亨は容疑を否認したが、老僧が拷問中に亨を殺害し、海陵は「涙を流す」ふりをして母に「考掠の最中に飲水で死んだ」と偽った。亨は撃鞠に天下第一の腕前を持ち、勇力に優れていたことが逆に忌避される原因となった。正隆六年(1161年)、海陵は諸宗室を殺す際に亨の妃圖克坦氏、次妃大氏の子音德ら三人も殺した。大定初め官爵を復し韓王を追封、十七年(1177年)亨と妻子の改葬が命じられた。