金史卷七十六 列傳第十四 永元
河北の名吏
- 幼くして聡敏で日に千言を誦し、皇統元年の宗室子詩作の試験で中格、左氏春秋にも通じた。天德初め博諾山の世襲穆昆を授かったが、海陵の伐宋失敗と契丹叛乱により宗室への疑いが深まり弟塔納・阿里布は殺された中、永元は弟額布勒とともに逃れて難を免れ、世宗即位後に帰参した。宗正丞・符寳郎・灤州刺史・棣州防禦使・泰寧軍節度使を歴任、通検使張弘信の民への苛酷な取り立てを「田産に妄りに課税し百姓を鞭打ち死に至らしめている、これが立法の本意か」と面と向かって糾し改めさせた。震武軍・崇義軍・順義軍節度使として朔州の宿弊(猾吏・大姓による訴訟濫用や賦役の乱れ)を正し、済南尹・北京副留守などを歴任した。晩年、家婢辰徳と咸平の人海呼との姦通に端を発する誣告事件(永元が謀反したとの偽の告発)に巻き込まれたが、世宗の裁定で無実が明らかになり海呼は斬に処された。彰徳軍節度使在任中に五十一歳で卒し、上は使者を遣わし致祭・厚賻した。各地で治績を挙げ、民から祠を立てられたという。