金史卷七十六 列傳第十四 杲

中京攻略と輔政

  • 世祖の第五子、太祖の母弟。収國元年太宗が安班貝勒となった時、杲は温貝勒となった。天輔元年、一万の兵で泰州を攻略、金山県も下し、孟古皮室四部・渤海人が来降した。天輔五年、烏赫哩貝勒として都統内外諸軍を率い中京(実は北京)を攻略、普嘉努・宗翰・宗幹・宗磐が副将、宗峻が哈濟明安を率いた。「遼政は綱紀を失い人神ともに棄てた、今こそ中外一統を図るため大軍を率いよ」との太祖の詔を受け、高恩・回紇の三城を克し中京を陥落させ、馬・牛・駝・羊・車の多数を得た。以後、宗翰の献策(希尹の得た情報による遼帝襲撃)を宗幹の勧めで採用し、奚王嶺での合流を経て遼帝を追撃、西京を攻略。遼の秦晋國王耶律聶哷が燕京で自立した際は書簡で招諭に応じさせようとしたが応じられず、後に太祖に降を請う書を送った。太祖の燕京平定に従い、太宗即位後は安班貝勒として宗幹とともに国政を治めた。天會三年伐宋では都元帥として京師に留まり、宗翰・宗望が分道進軍、四年の再伐で宋の二帝を捕えた。天會八年(1130年)薨じ、皇統三年遼越國王を追封、天德二年太祖廟庭に配饗、正隆の例で遼王、大定十五年智烈と諡された。子は博濟。