金史卷七十六 列傳第十四 宗本

太宗子孫を根絶させた大粛清

  • 皇統九年右丞相兼中書令、進んで太保領三省事、海陵簒立後は太傅領三省事に至った。海陵は熙宗の代から「太宗の子孫が優遇されすぎている」と私議しており、簒立後の猜忌はさらに深まった。秘書監蕭裕と謀り、尚書省令史蕭玉を使って宗本らを誣告させた。蕭玉は宗本の側近を装い、「太傅(宗本)が内応すれば何事も成る」「長子錫里庫は必ず大貴の相がある」等の言葉を聞き出したと称し、実際には宗本らに何の反意もなかったが、海陵は蕭玉の告発をもって天下に信を示す口実とし、宗本と判大宗正事宗美を毬場で誅殺、蕭玉を脅して「宗本らは謀反した」と証言させた。これを受け東京留守宗懿、北京留守卞、益都尹畢王宗哲、平陽尹稟、左宣徽使京らの家族もことごとく殺害され、中京留守宗雅(仏を信奉し善大王と称された無害な人物)まで召し出されて殺され、太宗の子孫は七十余人が死に、その血統は絶えた。海陵は太府監完顔富魯に宗本らの家産を籍没させたが、後に富魯自身も宮中物の私用を咎められ棄市の刑に処された。大定二年、世宗は宗固を魯王、宗雅を曹王、宗順を隋王、宗懿を鄭王、宗美を衞王、宗哲を韓王、宗本を潞王、實圖美を幽王、哈必蘇を瀋王、沃哩を鄂王に追封し、呼爾察・和色哩・克實にも金吾衞上将軍を贈った(宗磐・阿里布・呼沙呼・呼蘭の四人のみ加封されなかった)。
  • 蕭玉は奚人で、宗本の誣告により海陵に重用され、礼部尚書・特進から参知政事・尚書右丞・平章政事・右丞相・陳國公に至った。だが海陵の恣意的な威権行使を諫める発言があり(「唐の魏徴・狄仁傑・姚崇・宋璟のような賢臣は威をもって人を畏れさせなかった、楊国忠の輩こそがそうした」)、司徒判大宗正事、御史大夫を経て海陵の南京巡幸に随従、伐宋策には「長江が南北を隔て舟楫は我が長所ではない、苻堅の百万も晋を渡れなかった」と反対して海陵の怒りを買い杖罰を受けた。世宗即位後は奉国上将軍に降され家産を没収されたが、後に孟州防禦使として再登用され、世宗から「海陵の悪事の証人にされただけだ、過ちを改めよ」と戒められた。晩年は太原尹在任中の紛争で解職され卒した。

史論(宗磐・宗本らについて)

  • 賛にいう。宗磐はかつて舍音に従い中京を取った功があり、労なきとは言えない。世禄に礼薄きは古来しばしばあることで、国家がいかにこれを保全するかにこそ道がある。熙宗は宗磐を殺してもその母后を存恤し、それが偽りの情であったとしても世評を憚ったのだろう。海陵は宗本兄弟の殺害を余す所なく謀り、太宗が宋を挙げて中原を得て金の百世不遷の廟を築いたにもかかわらず、二代でその血統が絶えた。太祖の美意もこれによって完全に失われた。春秋の宋公が公子與夷を措いて弟を立てたことが数世の禍・五国の害を招いたという故事は、後世の戒めとするに足るであろう。