宗室の長老
- 宗雄の次子。年少より父の風格を持ち、毬技で連勝し太宗に厚遇された。天眷二年、明安を兄の子和勒端に譲り武定軍節度使、侍衛親軍都指揮使、金源郡王・譚王を歴任した。海陵の中都遷都に「祖宗の興王の地を棄てるのは非義」と諫めて疎まれ、正隆で王爵を削られたが、世宗即位に際し弟雅爾堅の反対を退けて帰順し、雅爾堅は誅されたが安塔哈は「正隆の宗室粛清を朕は真似ない、弟に惑わされただけ」と許された。判大宗正事、太子太保・蘭陵郡王を経て金源郡王に至り、大定十四年(1174年)六十七歳で薨じ、「富貴に驕らず謙退せよ、我は純謹にして死を免れた」と子に遺言した。
完顔希尹(本名古紳)――女直文字の創製者
- 罕都の子。太祖に従い数々の戦功を挙げ、太祖の命で漢字の楷書と契丹字を参考に女直大字を創製、天輔三年(1119年)に頒行された(熙宗が定めたものは女直小字と呼ばれる)。中京・北安州攻略、遼護衛の捕縛、遼帝の隠山追撃と西京陥落に功を挙げ、二伐宋では元帥右監軍として宋の二帝を捕えた功で鉄劵を賜った。宗翰とともに熙宗擁立を主導し、尚書左丞相兼侍中・開府儀同三司・陳王に至った。宗幹とともに宗磐・宗雋を誅したが、皇統三年(1143年)、熙宗に嗣子なきことに乗じた讒言により無実の罪で賜死された(子巴達・符宝郎満も殺された)。皇統三年、熙宗はその無実を知り儀同三司・邢國公を追贈、天德三年豫王、正隆二年金源郡王に降封、大定十五年貞憲と諡された。孫は守道(別伝)・守貞・守能。