金史卷七十三 列傳第十一 守貞

明昌の治を支えた宰相

  • 貞元二年(1154年)祖の穆昆を襲い、彰徳軍節度副使・北京留守・上京を歴任したが、契丹戸の民部内婚姻の罪で除名された。西京警巡使として世宗にその剛直を愛され、中都左警巡使・大興府治中・同知西京留守事を歴任、治績を賞された。章宗即位後、刑部尚書兼右諫議大夫として起居注に関する制度改革(諫官の視朝陪立の回復)を進言し容れられた。参知政事・尚書左丞を経て東平府・西京留守を歴任、明昌四年(1193年)平章政事・蕭國公に至った。「国家七十年、礼楽刑政は遼宋の旧制の寄せ集めで乱れていたが、章宗の代に修正され一代の法として整った、その多くは守貞の裁定による」とされ「明昌の治」の実務を支えた。監察制度の刷新(女直・漢人ともに進士出身で統一すべしとの建議)、経童科の裁減、鄭王永蹈の家産処分など幾多の政務に関与したが、鎬王永中事件で近侍と密語し妄りに上奏したとして解職・降格され、承安元年(1196年)河中防禦使に落とされた。晩年知都府事、済南府知事在任中に卒し、粛と諡された。剛直明亮で人材の臧否を隠さず語ったため胥持国らに忌まれたが、後年趙秉文は「君子は故相完顔守貞、小人は今の参知政事胥持国」と評した。