康宗の長子として太祖を輔けた智将
- 康宗の長子。世祖に「風骨非凡、将来国器となる」と見込まれ、幼くして騎射に優れた。太祖の伐遼決断(蕭哈里捕縛を経ての「遼は取るに足る」との進言)を後押しし、寧江州・珠赫店・達嚕噶城の各戦で功を挙げ、太祖から「朕にこの子あれば何事も成る」と評された。遼帝を追撃する呼岱巴岡の戦では衆寡を恐れず短兵で敵陣を破り、泰州の屯田を献策し(土地を検分し「種植に適す」と上奏)万余家の移住を実現した。西京攻略では糧食の底をつく中「委ねて去れば降者が離心する」と重賞で士気を鼓舞し攻略に成功した。天輔六年(1122年)四十歳で薨じ、太祖は間に合わず哭礼を尽くし「謀略人に過ぎ臨陣勇決、比類なし」と評した。契丹字・女直字の双方に通じ女直字書の制定にも宗幹らと関わった。海陵は宗幹が宗雄の妻を娶ったことを恨み、簒位後にその妻・子婦・子孫七人を殺し骨を濠水に棄てたが、大定十七年(1177年)改葬が命じられた。天眷中太師・齊國公、天德二年秦漢國王、正隆二年金源郡王、大定二年楚王に追封、威敏と諡され太祖廟庭に配饗、十五年衍慶宮に図像された。