金史卷七十 列傳第八 思敬

西北招討と文治の建言

  • 実図美の子、希卜蘇の弟。もとの名は思恭だが顕宗の諱を避け改名。年十一で父に従い太祖に謁見し狩猟で黄羊を射止め賞された。宗翰の伐宋・河南攻略に従軍、太宗の東京温湯行幸時は護衞を統率した。皇統七年(1147年)、熙宗が魚を捕っていた際、曹國王宗敏が酔って水に落ちたのを躍り込んで救出し重賞された。天德初め工部尚書・殿前都点検・吏部尚書、報諭宋国使として派遣された際は宋の慣例による銭塘江観潮を辞退し「我が国には東に巨海があり、江水は銭塘より大きい」と述べた。以後、尚書右丞・真定尹・河内郡王(のち鉅鹿郡王)・益都尹を歴任、大定二年西南路招討使・済国公、北路都統・元帥右都監・元帥左都監を経て斡罕討伐に功があり、大定三年北京留守、七年平章政事。明安穆昆の家属を戦時に州県へ留め軍の負担を軽くする策を進言し、また省併された無功の穆昆の待遇是正を進言した。九年、樞密使として五事を上疏(女直人の科挙登用、契丹人の女直明安への分隷、塩濼官の廃止、明安と組む副千戸官の廃止、親王府官への女直語教習)、いずれも容れられた。世宗が熙宗実録の編纂にあたり侍従として当時を尋ねたところ「熙宗時代は内外に人材を得、風雨時に恵まれ豊作で盗賊も少なく百姓は安んじた、それが大概である」と簡潔に答え、世宗を喜ばせた。大定十三年(1173年)薨じ、上は自ら喪に臨み哭泣、旧臣として厚く葬礼を給した。

史論

  • 賛にいう。和卓が国を譲り世祖が帝業を開き、薩哈は国を治め社稷を定め太祖を推戴した深謀遠慮は一代の宗臣として賢であった。希卜蘇はかつての過ちを補い五世にわたり功を著した。始祖と末弟とが別の部に分かれて処し、その子孫がともに強宗となったが、伐遼の策は結局都古嚕訥に定まった。これもまた天道の助けであろうか。