金史卷七十一 列傳第九 斡魯
高永昌討伐と遼主追撃の主将
- 韓國公和卓の第二子。康宗の代、髙麗の九城築造や沃赫討伐に威泰・烏色を佐けて功を挙げた。収國二年(1116年)、髙永昌討伐の詔を受け、渤海人髙永昌が東京で「大渤海」を僣称し隆基と改元した経緯(東京の漢人・渤海人の軋轢が背景)を経て、瀋州攻略、遼の来降と再度の背信、遂に永昌の追撃・捕縛(永昌とその一味は托卜嘉らに斬られた)に至るまでの一連の戦いを主導した。以後、南路都統として遼の南路係籍女直・東京州縣の帰順を統べ、遼制を廃して明安穆昆を置いた。矩威水部の反乱鎮圧、太原都統の遼主追撃(西京攻略、夏国の援軍撃退、遼主の妻子・傳国璽の奪取)にも従い、宗翰・普嘉努とともに西北・西南両路都統を務めた。夏との領土問題では朝廷に慎重な対応を進言し、宋との交渉でも山西の地を割かないよう繰り返し具申した。天會五年(1127年)薨じ、皇統五年鄭國王を追封、天德二年(1150年)太祖廟庭に配饗された。子は薩巴(銀青光禄大夫)・色哩。