礼制の刷新と老臣としての重み
- 女直字書を学び、太宗に才を認められた。従宗翰伐宋し汴京陥落の際、人が府庫の財物を争奪する中、独り図書を載せて帰った。朝廷の礼楽制度の議論では、遼の旧制をそのまま踏襲することに反対し「今や遼宋を併有した以上、遠く前古に学び時に応じ一代の法を成すべき」と論じた。宗雋・達蘭が河南・陝西の地を宋に与えることを主張した際にはこれに廷争して退け、後に宗弼が同地を取り戻したことで熙宗から「卿の言に従った」と評価された。希尹の冤罪を惜しんだ熙宗に対し、その孫の登用にあたり先に希尹の無罪を明らかにすべきと進言し容れられた。皇統五年(1145年)の覃恩が女直人のみに限られようとした際、「莫非王臣、慶幸に差があってよいか」と諫めて文言を改めさせた。天德初め中京留守・武安軍節度使、河内郡王、太原尹、鉅鹿郡王を経て、正隆で例により王爵を奪われた。世宗即位に際し先に官を棄て帰順し、中都留守・西京留守・南京行台尚書省事を歴任、太子太師・平章政事に至った。大定六年(1166年)、五十九歳で薨じ、上は久しく輟朝して悼んだ。