金史卷六十九 列傳第七 胙王元)

熙宗・海陵朝の犠牲

  • 胙王元は景宣皇帝宗峻の子。本名常勝といい、北京留守を務め、弟扎拉は安武軍節度使であった。皇統七年(1147年)四月、左副点検富察阿固岱の子が主に酒を進めた宴で、熙宗が酔って常勝に無理に飲ませようとしたが常勝は飲めず、熙宗は怒って剣を抜いて迫った。常勝が逃げると熙宗はますます怒り、左丞宗憲を召してこれを追わせた。
  • 海陵は唐古辯と廃立を謀った際、自らが太祖長房の孫として立つべきと考えていたが、辯は「胙王常勝がいる」と答え、海陵はさらに「その次は」と問うと「鄧王の子阿蘭」と答えた。これにより海陵は常勝と阿蘭を疎み、忌避するようになった。折しも河南軍士孫進が「皇弟按察大王」と自称する事件が起き、熙宗はこれが常勝を指すのではと疑い塔斯に鞫させたが証拠は出なかった。海陵はこれに乗じ熙宗に「陛下の弟は常勝と扎拉しかいない、塔斯の鞫問が実を尽くしていないのだ」と讒言し、熙宗は唐古辯・蕭肄に再度按問させ、塔斯は誣服して常勝の罪を出した。かくて常勝とその弟扎拉、および塔斯まで殺された。海陵はさらに阿蘭を陥れて殺し、その弟達蘭も殺した。熙宗はもともと達蘭を殺す意思はなかったが、海陵は「兄が既に誅されたのに弟だけ生かしておけるか」と言ってこれも殺した。熙宗は海陵を忠実と信じ、いよいよ重用したが、その奸計に気づかなかった。海陵が簒立すると、常勝・扎拉・阿蘭の官爵を追封し親しく葬所に臨んで致祭した。
  • 大定十三年(1173年)六月、世宗は皇太子・諸王を清輝殿に召して食を賜い、「海陵は多能とされるが」と問うたが、「詐術に長け残忍で天下の三分の二を空しくした」と評し、「太祖の諸孫の中でただ胙王元こそ天性賢者であった」と称えた。元の子育(本名和卓)は大定二十七年(1187年)、南京副留守から大宗正丞兼勧農副使に遷り、世宗が「和卓の人となりは」と宰臣に問うたところ、平章政事襄参政宗浩は「清廉で幹治あり」と答え、上は「父もそうであった」と述べ、「費揚古(胙王元)は外は愚訥に見えるが臨事は明敏で人に過ぎる、朕は兄弟の中でも元にとくに親しかった」と語った。

史論

  • 賛にいう。太祖は自ら甲冑を身につけて国家を定め、遺策なく事を進めた。諸子もまた勇略・材識をもって父の志を遂げるに足り、太宗の代になって諸孫がその成果を享受するに至った。