金史卷六十九 列傳第七 宗敏

海陵による惨殺

  • 天眷元年、邢王に封ぜられ、皇統三年に東京留守・左副元帥・会寧牧を兼ね、都元帥・太保領三省事・行台尚書省事を歴任し曹國王に封ぜられた。海陵は簒立を謀った際、宗敏の尊属・材勇を畏れ誣告により除こうとしたが証拠がなく果たせずにいた。熙宗弑逆の後、海陵が召したとき宗敏は疑懼し出頭を躊躇ったが、葛王(世宗)に説かれ入宮したところ海陵に殺害された。烏達が「太祖の子だから殺さねば衆議が起こる」と進言し、布薩呼圖が刃をふるい、宗敏は血まみれになりながら周囲に「国王に何の罪があるのか」と問うたが、烏達は「天が許した大事だ、この蟣蝨(ちっぽけな者)が何を言うか」と答えたという。天德三年、海陵は宗敏を太師に追封し爵を進め、妃富察氏を国号に進め、子薩哈連を舒国公とし名を褒と改め王に進封、阿里罕を密国公とした。正隆六年(1161年)、契丹薩巴の反乱に際し海陵が諸宗室を殺させた折、阿里罕も殺害された。大定年間、詔によりこれらの官爵は復された。