衞王家の盛衰
- 宗強は天眷元年に紀王、三年に宗固に代わり燕京留守・衞王・太師となり、皇統二年十月に薨じた。輟朝七日、上京の喪に上自ら親臨し哭礼を尽くした。子は阿林(爽)・克實・阿蘇。
- 爽(本名阿林)は天德三年(1151年)に世襲明安を授かり、正隆二年(1157年)横海軍節度使から安武軍留守司に転じたが、海陵の伐宋の際酒禁を犯して弟阿蘇・従兄亨(克實ら)と杖罰を受け歸化州刺史に落とされた。まもなく安武軍節度使に復し、海陵の南征中は宗室粛清を恐れて妻子を棄てて世宗のもとへ奔り、殿前馬步軍都指揮使・温王に任ぜられた。以後、太子太保・壽王、英王、榮王、太子太師と累進し、世宗から厚い信頼と友愛を受けたが、大定二十三年(1183年)に病没し、上は輟朝して致祭・厚葬し、親送できなかったことを悔いたという。
- 克實は宗室子として累官し唐古部族節度使から忻州刺史に降されたが、海陵の追討を逃れて世宗のもとに帰順した。世宗が中都に至った際、大定二年正月(1162年)、鄂倫・李惟忠・鄂爾多・璋・布呼らと扈従軍士の不満に乗じて謀反を企てたが計画は破綻し、克實らは自首、克實は当初白状しなかったが鄂倫との対質で罪を認めた。世宗は太祖の孫として惻然とし、罪を克實一身に止めその兄弟子孫には及ぼさなかった。鄂倫・李惟忠・鄂爾多・阿古喇らは誅され、璋は彰化軍節度使、布呼は濬州防禦使に落とされた。