対宋戦線で活躍した猛将
- 阿里布は伊克の子で、魁偉で智略に富み戦を好んだ。冠を加える前から従軍し咸州・東京を落とし、遼が海州を取り返そうとした際、貝勒瑪竒の援軍として重敵に遇い力戦して首級千を斬った。烏楞古に従った豪懿州攻めでは10余騎で敵700を破り、遼主襲撃にも従い、北地を巡って営帳24・民戸数千を降した。西京陥落後、棟摩が応州を攻めきれず州北10余里に退営した夜、阿里布は兵400で伺わせ、敵3千の来襲を迎撃して首百余を斬り馬60を獲た。その後、遼兵3万が馬邑の境に出た際は千兵で撃ち、陣中でその将を斬った。
- 天会の初め、宗望が張覚を平州で討った際、応州に兵万余の来援があると聞き阿里布と阿勒達を迎撃に遣わし数千を斬って帰った。兄の約罕とともに乾州攻めに赴いたが約罕が道中病没したため代わって軍を率い乾州を降し、営帳30・印40を獲た。布呼とともに義州を落とし、宗望の宋討伐では郭薬師との白河の戦いで阿里布が二穆昆を率いて先登し賞賜が特に厚かった。汴に至って淮南援軍を破り、大軍が孟陽に退いた際、姚平仲が夜襲した重兵に阿里布はその中心で当たり力戦して破った。
- 大名・開德の合兵10余万が河を争う中、敵から遠いうちに軽兵で夜発し詰旦に衛県に至り敵と遭遇し数千を斬り潰走させた。邢州の滹沱橋が焼かれていたが、阿里布が先に偏師で水上に営し、軍が到着する頃には橋が完成していたため宗望はその功を真定の庫物で賞し長勝軍千戸とした。再度の宋討伐では宗望に従い井陘で敵を破り欒城を落とし、大名から済河した際は洺州の境に駐屯した。康王が相州・大名府から我が営を攻めた際、阿里布は夜に騎兵200で背後から反撃し破り、数日後には蘇統制の2万の先着兵を300騎で夜襲前に大破し蘇統制を生擒して殺した。
- 汴京陥落後は洺州を攻め大名救援兵を破って洺州を落とし、達蘭とともに恩州を攻め、洺州が再叛すると城下で撃破しその守佐を捕らえ、富埒琿とともに信徳軍を取り、梁王宗弼の開徳攻めには歩兵5千で赴いた。大名境内の賊を留屯して討ち、莘県を犯した賊を追撃し館陶で全て捕らえた。宗弼の康王追撃で淮を渡った後は和州に留まり未附郡県の討伐を督し、太平州を攻略しその城を隳し、廬州の叛乱を偏師で討ちその騎6千を破って3校を捕らえ、慎県で敵2万を破り首500を斬った。張永合の歩騎数万の来襲に対し兵2千で囲まれながらも突破し力戦して破り40里追撃し馬300を獲た。再び廬州を攻めた際は達呼布とともに拓臯で敵万衆を破り、廬州で騎兵500の出撃を破り2校を斬った。
- 宗弼が陝西に赴く際、大名が再叛すると阿里布はこれを経略し、独り訳者とともに城下に赴き招いて降した。翌日兵器の上納を命じると吏民は安堵し治まった。大名開徳路都統として斉国建国に際し阿里布は汴城外に屯兵し、天会15年、斉国廃止の詔で劉麟を既に捕らえていた阿里布は先に汴京に入り変に備えた。翌年、歸徳尹を除せられ河南の地を宋に割く際は燕京内省使として入り、宗弼が河南を復す際は先に河を渡って諸郡を撫定し、再び歸徳尹・河南路都統となった。
- 宋兵が河南を取り返そうとした際、宗弼は許州の韓常・穎州の大臭・陳州の持嘉暉とともに阿里布を汴に召集したが、阿里布は敵が近いことを理由に独り赴かず、宋将岳飛・劉光世らが隙に乗じて許・穎・陳三州を奪い旁郡も響応する中、歸徳を攻めた敵を連戦連破し亳・宿等州を復し河南を平定する功が最大であった。皇統5年、行台参知政事となり世襲明安兼哈済穆昆を授かり、元帥右監軍・博索路統軍・歸徳軍節度使を歴任し儀同三司に累進した。汴にいた頃、官舎の材木を取って恩州に私第を構えたことが発覚し、勲・親を論ずべき立場であったが、海陵はかつて軍中で阿里布を嫌っており「勲労を論じるならもっと大きい者もいる、しかも官は一品に至り既に報いている、国家の法は貴賤問わず一様であるべきだ、親貴だからと言って異なる扱いをしてよいのか」として死罪とし、55歳で死んだ。阿里布は将家の子として征伐に従い功を重ね、官歴を通じ恵愛があり民心を得ていたため死を惜しまれた。大定3年、儀同三司を追贈され、子を右衛将軍として明安及び親管穆昆を継がせ、銀500両・重綵20端・絹300匹を賜った。