金史卷六十七 列傳第五 埒克

図們琿春の三十五部連合

  • 埒克は図們・琿春水の合流地の烏庫哩部の人、呼沙呼貝勒の子で、卓多琿春丞安春は呼沙呼の子である。埒克は烏遜・烏塔両部の民を誘って乱を作させ、達薩塔・通恩も叛いて埒克・卓多と結び「図克坦部の党14部、烏庫哩部の党14部、富察部の党7部で計35部、完顔部はわずか12部、35部が12部と戦えば3人で1人を戦うようなもので必勝だ」と揚言した。世祖に降附していた諸部も離心する中、烏雅部の色埒貝勒及び図們水温特赫部の阿勒巴貝勒・薩克蘇貝勒らは難を告げに来た。色埒は達希布の子で、先に兄の巴古拉を遣わし、後に自らの甲を献じて帰服した。阿勒巴らは「我らは決して乱には従わないが援兵を乞う」と述べた。
  • 穆宗は薩哈に埒克を、們圖琿に達薩塔を討たせ、太祖は甲70を持って薩哈軍に赴く道中40を們圖琿に分与、実図美の軍が們圖琿と穆嚕密斯罕城下で合流した。通恩は埒克を助けようとしたが們圖琿の兵が少なく無防備と侮って先制攻撃を狙ったが、それを知らず実図美が来援していた們圖琿・実図美は迎え撃って通恩を大破し、穆嚕密斯罕城は降った。通恩・達薩塔は捕らえられたが誅されず釈放された。太祖は薩哈軍に到着後、翌日埒克城を攻め破り城中の渠帥を誅しその財産を得て帰った。烏塔城も守備を撤して降った。埒克は先に遼にあり、烏塔は既に脱出しており未だ捕らえられなかった。卓多も普嘉努のもとに詣でて降り太祖はこれを釈放し、諸部は元通り安業した。後に埒克・烏塔もともに降った。