金史卷六十五 列傳第三 烏哲

対宋戦の猛将

  • 烏哲は天会15年の大封で魯王を追封されたが、正隆の例により公に改封された。子の実図美は驃騎衛上将軍。その子璋は本名を呼密多といい、勇略があり女直・契丹・漢字に通じ、18歳で左副元帥薩里罕の麾下に置かれた。京師に赴いた際に梁王宗弼に見え気に入られた。皇統6年、父実図美が卒すると宗弼の奏請により穆昆を襲った。天徳3年、牌印祗候に任じたが罪により免ぜられ穆昆を奪われ中都に寓居、海陵の宋討伐に本明安の兵で従軍したが半途で南征万戸完顔福寿らとともに逃亡し遼陽で世宗に謁した。
  • 世宗即位に際し、璋は同知中都留守事の富察薩勒扎に世宗への帰服を勧めたが従わなかったため、璋は守城軍官の烏淩阿実嘉努・烏淩阿愿・図克坦三勝・富察芬徹らと兵を率いて留守府を襲い薩勒扎と判官瑪延薩里罕を殺し、宗强の子阿蘇を留守に推した。璋は同知留守事として実嘉努に薩勒扎の金牌を佩びさせ、愿・芬徹らと使者として世宗の即位を賀した。世宗はこれを嘉して官職を授け、璋を同知中都事としたが、璋は薩勒扎殺害後自ら同知留守を摂していたため世宗が追認する形となり、璋は常に不安を抱いた。ついに兵部尚書克実と謀り、世宗が山陵に謁する機会に叛乱を企てたが、大定2年その謀議に加わった万戸高松が従わなかったため、璋は事の成らないことを悟り克実らとともに謀主の鄂倫を捕らえ有司に差し出し、璋は彰化軍節度使に任じられた。
  • 宋将呉璘が散関を出て宝雞以西を拠ると璋は元帥都監図克坦喀齊喀の軍前に赴いた。宋軍が原州・寧州を拠った際、刺史延扎們都が兵四千で攻めたが克てず、宋将姚良輔の十万の兵が原州に至った際、璋は平涼・涇州・潘原・長武等の戍兵2万を合わせ、押軍明安舒穆嚕錫喇布に兵2千で城北を守らせ、実訥埓に兵3千で城西北十里の麦子原を守らせて陣を布いた。璋は自ら城西に陣したが、姚良輔は9万の兵を麦子原に陣させ、別に騎兵2千で璋の軍を襲ったため、璋は錫喇布・実訥埓を援兵で強化し、伏兵と挟撃で姚良輔軍を大破、首級万余を斬り堀に落ちて死んだ者は数えきれず、甲矢万余を鹵獲した。良輔も傷を負って逃走し、原州を囲んで陥落させ、宝雞以西の宋の戍軍も自散した。
  • 徳順州を宋の呉璘が再び拠ると、璋は喀齊喀の権都統として実訥埓とともに救援に赴き、張義堡で呉璘の騎兵2万と戦いこれを破り40余里追撃した。璋が徳順に至ると呉璘は北の険要に陣を張ったが、5度の交戦の末呉璘軍は敗走、璋は城下まで追ったが呉璘軍が城北の岡阜に拠って弩で挟射したため一時退いたが反撃して大破した。喀齊喀が援軍を送り再戦、璋・実訥埓の連携で呉璘軍を退け、東山堡を巡る攻防でも璋は先んじて要地を確保し呉璘軍を大破した。呉璘は3万の軍で険を頼りに三陣を布いたが、璋は別動隊で背後を突き大敗させた。呉璘軍は険に頼って再起を図ったが、璋は「敵は険だけでなく数を頼みにしている、退けば敵は深入りしてくる、退くより増援すべきだ」と説き、都監喀齊喀が4万を率いて赴くと、呉璘は霧に乗じて奇襲を試みたが敗れ、以後宋の経畧使荆臯の軍も璋・実訥埓の追撃で撃破された。
  • 御史中丞徳済は璋と旧怨があり戦功を過少に報告したため、璋の将士への恩賞は他軍の半分となったが、璋は陝西路都統統一を進言し功が最も多いと認められ、徳済は削官・杖罪となり、璋は改めて他軍同様の恩賞を得て西北路招討使、元帥左都監兼安武軍節度使に進み、益都尹を兼ねた。宋が海州を放棄した際、璋はそこに至り棄てられた糧3万6千余石を得て民を安集し屯戍を復した。5年、宋との和議が成って三路都統が廃されると陝西路統軍司が置かれ璋がその使となった。後に京兆尹を兼ね御史大夫に召され「臺には自分の他に女直人がいない、資考に限らず人材で選ぶべきだ」と上奏、また太祖・太宗の受命を記念する「大金受命之宝」の製作を建議しこれが実現した。
  • 大定13年、璋は賀宋正旦使として宋に赴く際、皇帝から「宋人が旧礼に従わなければ書を渡すな、迫られても宴には赴くな、返書・礼物は一切受けるな」と厳命されたが、臨安で宋側の圧力に負けて書を渡し宴にも赴き多くの礼物を受け取ったため、上は激怒し極刑を望んだが、左丞相良弼が「璋は宋軍を大破し宋人に深く恨まれている、殺せば宋の術中にはまる恐れがある」と諫めたため、璋は杖150・除名となり、副使髙翊も杖100・受贈礼物没収となった。後に上は璋の征伐の功を思い、景州刺史・武定軍節度使に起用し、山東西路の博迪山納古爾河穆昆を授け、臨洮尹に改め、大定19年に卒した。

鄆王昻とその子正嘉――宗室の失策と海戦の悲劇

  • 鄆王昻は本名を烏達といい、世祖の最幼子で常に太祖の征伐に従った。天輔6年、昻と素赫に兵四千を授けて降人を監護させ嶺東に置き、臨潢府を守らせたが、昻は降人を撫御できず苦しめたため多くが叛亡した。上は綽里特に戒諭させたが、既に上京を過ぎた諸部はすべて叛去し、章愍宮小室韋二部のみ内地に留まった。安班貝勒烏竒邁は「昻を派遣して諸部を徙したことで多くの怨叛を招き、素赫は駐兵して討襲に加わらず降人を再び逃がした、遼主の命に背き衆を失ったのは重罪に当たるが、疑わしければ禁錮し師の帰還を待って議定すべきだ」と述べ、太宗が居守しこれを補佐する希卜蘇の勧めもあって、国慶の恩により罰を軽くし昻を杖70として泰州に拘禁、素赫は殺された。
  • 天会6年、権元帥左都監、15年、西京留守、天眷3年、平章政事、皇統元年、漆水郡王に封じられ、2年、皇叔祖の字を冠して鄆王に改封されたが、この年薨じた。子の正嘉・鶴寿のうち鶴寿は伊囉斡群牧使を歴任し契丹の薩巴の乱で死んだ(詳細は忠義伝に見える)。
  • 正嘉は皇統の初め宗室の子として定遠大将軍に授けられ磁州刺史を除せられ、天徳の間に右諫議大夫を歴任、会寧尹・安化軍節度使、益都尹と改め、海陵の宋討伐に浙東道副統制として工部尚書蘇保衡とともに舟師で海路より臨安に向かった。松林島に至り風に阻まれ島間に停泊した際、舟人が敵舟を望見し備えを進言したが、正嘉は距離を疑い信じなかった。間もなく敵が現れ、我が軍の無備を見て火砲を投じてきた。正嘉は左右の舟がすべて発火するのを見て逃れられないと悟り、水に投じて死んだ。時に41歳。