対遼追討と反乱鎮圧の武将
- 天会14年(1136)の宗室大封の際、噶順は追封で王爵を受けたが、正隆の例により鄭国公に降封された。子の普嘉努(また名を昱という)は太祖に従い埓克烏塔を伐ち、太祖の命で卓多を招いて降した。康宗8年、遼籍の女直赫舎哩部の阿勒呼丹が兵を阻んで亡命者を招納し、多くが逃げて帰属した際、普嘉努は夜行昼止して実埓水に至り襲撃してこれを大破し、その一族を尽く俘にして帰った。以後辺民の逃亡はやんだ。後に泰州の地の視察に赴き、太祖はその地に万家を徙して屯田させた。天輔5年、普嘉努は温貝勒となり都統として遼帝を襲おうとしたが雨潦のため果たせなかった。その後、烏赫哩貝勒杲が都統となり内外諸軍を率いて中京を取った際、普嘉努らはその副将となった。
- 遼帝が西走すると、都統杲は普嘉努に兵千を率いさせ達蘭を助けて遼の統瑪格を撃たせたが達蘭とは連携できず、普嘉努は色哩舎音とともにその西北の居延の衆を降した。降民が再び逃散し皮室部も叛いたため兵を率いて追撃し、徳里川で敵8千に遭遇し力戦したが敗れた。察喇が兵を率いて合流し黄水で追撃、多くの畜産を得た。この戦いで鄂屯・安塔哈は11創を負いながらも敵を破って旺国崖西に帰陣した。色哩もまた兵を率いて太祖に合流し、草濼から遼帝を追った。普嘉努・宗望は先鋒となり「敵が深く溝を掘り塁を高くしていれば戦うな、偵察・巡邏にとどめ大軍を待て、無防備なら撃て」と戒められた。太祖が古爾珍川に至り、烏舎・馬和尚が小魚濼で夜潜入して遼主の営を襲い斯勒年を捕らえたことで遼帝の所在が知れた。
- 普嘉努らは昼夜兼行して石輦鐸で追いつき、我が兵4千のうち到着したのは千人ほどであったが、遼兵に包囲されながらも伊都が遼帝の麾蓋の騎兵に馳せ込んだため遼帝は遁走し、遼兵は多く殺された。宗翰が西北・西南両路の都統となり普嘉努・斡魯がその副となった。烏琿部が叛くとこれを討ち平らげた。天会年間、司空となり王に封じられたが、天眷2年、宗磐らが誅された際その罪に連座して普嘉努も司空を奪われ、この年薨じた。天徳の初め太祖廟廷に配享され、正隆2年の例により豫国公に封じられた。