世宗昭徳皇后
- 烏凌阿氏。その先祖は海倫河に居り代々烏凌阿部長で部族を率いて帰順し上京に居り本朝と婚姻を結んだ。曽祖父の双寛は康宗の時累々使いとして高麗に赴いた。父の実徳琿は騎射に絶倫で太祖に従い遼を伐ち行軍明安を領し、軍伍の中にありながら殺人を好まず、功により世襲穆昆に任じられ東京留守となった。
- 后は聡敏孝慈で容儀整粛、父母の家では宗族から敬重された。世宗に嫁いでからは舅姑によく仕え、家を治めるに序があり婦道を得た。睿宗が宋を伐って白玉帯(蓋し帝王の服御)を得たが、睿宗の没後、世宗はこれを宝畜としていた。后は世宗に「これは王邸に相応しいものではない。天子に献ずるべきです」と言い、世宗はそのとおりだと思い熙宗に献じた。悼后(熙宗后)は大いに喜んだ。熙宗は晩年しばしば酗酒したが、世宗にだけは間違ったことをしなかった。海陵が簒立して宗室を深く忌んだ際、烏達が秉徳を讒して意は葛王(世宗)にあるとし、秉徳が誅されると、后は世宗に多く珍異を献じてその心を悦ばせるよう勧め、遼の果勒図犀佩刀・吐鶻・良玉茶器の類はみな竒宝であった。海陵は世宗が恭順で自分を畏れていると思い、忌刻の心はやや解けた。
- 后は妬忌せず世宗のために後房を選び継嗣を広めさせ、顕宗が生まれてからもこの心を変えなかった。后がかつて病になり、世宗が医薬を見守り数日離れなかったとき、后は「大王が妾を見守るのが過ぎている。知る者は病を看ているのだと思うが、知らぬ者は必ず専妬(独占)の嫌があると思うでしょう」と言い、「婦道は家を正すことが大であり、私は徳薄く益がないのを恐れる。どうして嬪妾のすることを模倣する必要があろうか。ただ己を厚くしようとするだけです」とも言った。
- 世宗が済南尹であったとき、海陵は后を中都に召そうとした。后は自分が済南で死ねば海陵は必ず世宗を殺すと考え、詔に従って済南を離れて死のうと決め、世宗に「私が死ぬのはあなたに累を及ぼさないためです」と語った。王府の臣僕張謹言を召して「あなたは王の腹心の人です。私のために東岳に祷ってください。私は王に背きません。皇天后土が私の心を明鑑するように」と諭し、家人を召して「私が初めて婦となってから今日まで、王に道に違うことがあったのを見たことがない。今、宗室でしばしば疑われる者があるのは、みな奴僕が不良で主を怨恨し誣陥するためだ。あなた方はみな先国王の時代からの旧人であり、旧恩を忘れず妄りに図ってはならぬ。この言に違えば、私は死後も冥中でお前たちの為すことを観るであろう」と言い、みな涙を流した。
- 后が済南を離れると、従行の者は后が海陵に会うことを肯じないだろうと考え、自ら手を打とうとするだろうと防護を厳しくした。行くこと良郷に至り、中都まで70里、従行者の防護がやや緩んだ隙に、后は自殺した。海陵はなお世宗が教唆してこうさせたのではと疑った。世宗は済南から西京留守に改められる途中、良郷を通過したとき、魯国公主に后を宛平県の土魯原に葬らせた。
- 大定2年、「昭徳皇后」に追冊され別廟が立てられ、三代が追贈された(曽祖父双寛は司空徐国公、曽祖母完顔氏は徐国夫人、祖父珠蘇庫は司徒代国公、祖母完顔氏は代国夫人、父実徳琿は太尉瀋国公、母完顔氏は瀋国夫人)。改葬を有司に勅し皇太子に致奠させた。后の兄暉の子天錫を太尉とし、実徳琿は後に世襲明安を授けられた。上は天錫に「朕が四五歳の頃、皇后と婚を定めた。祖父の太尉は朕を膝の上に置いて『我が婿七人のうちこの婿が最も幼いが、後に必ず我が門を大きくするだろう』と言った。今、卜葬の時に至り、昔日の言葉が験(あかし)となった」と言った。
- 6年、利渉軍節度副使の烏凌阿楚呼が逃軍を捕えた際、賍を受けて死罪に当たったが、有司は楚呼が后の大功の親であるとして議に付すよう奏し、詔で法のとおり論じさせた。8年7月、章宗が生まれ、世宗は喜んで顕宗に「社稷の冢嗣を得た、朕の楽しみはこれに極まる。これは皇后がお前に陰徳を残したものだ」と言った。10年10月、太尉実徳琿を改葬しようとしたとき、有司は唐で太尉李良器・司徒馬燧を葬った故事に依り百官が便服で都門外五里まで送る礼を援用すべきと奏したが、上は「以前太后の父母を改葬した際にこの故事を用いたことはない。ただ本朝の礼で改葬すればよい。ただし親戚はみな送るように」と言い、皇太子に臨奠を詔した。11年、皇太子の生日、世宗が東宮で宴した際、酒酣にして豫国公主に舞を命じ、上は涙を流して「この娘の母である皇后の婦道は至れり。朕が中宮を立てなかったのは、皇后の徳に比べられる者がいないと思うからだ」と言った。12年4月、皇后の別廟を太廟の東北隅に立てた。この歳5月、車駕は土魯原に行幸し致奠した。19年、大房山に改卜し、11月甲寅、皇后の梓宮が近郊に至り百官が奉迎した。乙卯、車駕は楊村に行き致祭した。丙辰、上は車に登って送り哭泣が甚だしかった。戊午、磐寧宮に奉安し庚申、坤厚陵に葬られ諸妃も祔された。29年、興陵に祔葬された。章宗の時、有司が太祖の謚に「昭徳」の字があると奏し「明徳皇后」に改謚した。