金史卷六十四 列傳第二 睿宗貞懿皇后

睿宗貞懿皇后

  • 李氏、世宗の母、遼陽の人。父の綽爾齊は遼に仕え官は桂州観察使に至った。天輔間、東京の士族の女子で姿徳ある者を選んで上京に赴かせ、后は睿宗邸に入った。7年後に世宗が生まれた。天会13年に睿宗が薨じたとき、世宗は13歳であり、后はこれを義方をもって教えた。かつて密かに親しい者に「我が子には竒相があり貴きこと言うべからず」と語った。
  • 上京にあって内治は謹厳で臧獲(下僕)もみな規矩を守り、衣服飲食器皿は精潔でないものはなく、親族を敦睦し貧乏を周給し宗室中で甚だ敬われた。后は性明敏剛正で決断力があり、容貌端整で言葉を妄りに発しなかった。旧俗では婦人の寡居は宗族が接続する(再婚させる)風があったが、后は髪を祝って比丘尼となり「通慧円明大師」と号し紫衣を賜り、遼陽に帰って清安禅寺を営建し別に尼院を建ててそこに居った。
  • 貞元3年(1155)、世宗は東京留守となった。正隆6年5月、后は卒し、世宗は哀毀(悲しみのあまり体を損なうこと)が礼を過ぎるほどで喪により去官したがまもなく起復して留守となった。この歳10月、后の弟李石が世宗の即位を東京で定策した。「貞懿皇后」と尊謚され、その寝園は「孝寧宮」とされた。大定2年、睿宗を景陵に改葬した。
  • 初め、后は自ら遼陽に浮図(塔)を建てさせ、これが垂慶寺となった。臨終に世宗に「郷土への思いは人情の同じくするところである。私は既に浮屠の法によりここに塔を置いた。必ずしも合葬する必要はない。私が死んでもこの言を忘れるな」と言った。世宗は遺命を深く念じ、東京の清安寺に神御殿を建て、有司に旧塔を増大させ塔前に奉慈殿を起こすよう詔し、勅で礼部尚書王竸に塔銘を作らせその意を叙した。后の曽祖父桑戩は司空潞国公、祖父波は司徒衛国公、父綽爾齊は太尉隋国公に贈られた。4年、后の妹を邢国夫人に封じ銀千両・錦綺20端・絹500匹を賜った。9年、神御殿を「報徳殿」と名づけた。詔で翰林学士張景仁に清安寺碑を作らせたが文が旨に称わず、詔で左丞石琚が共に修めた。13年、東京垂慶寺に神御殿を起こすとき、寺地が狭いため付近の民地を買い上げ厚い代価を与え、売り渡さない者には官地と交換する詔を出した。24年、世宗は東京に至り清安寺・垂慶寺に行幸した。