睿宗欽慈皇后
- 富察氏、睿宗の元配で后の母は太祖の妹である。睿宗が左副元帥であった天会13年(1135)に薨じ、潞王に追封されると后は潞王妃に封じられた。皇統6年に冀国王妃に進号し、天徳間に国号を進め、正隆の例で親王は一字王のみを封じることとなり睿宗は許王に封じられ后も許王妃となった。世宗の即位に伴い睿宗は升祔され、后は欽慈皇后に追謚された。后の曽祖父薩布は司空韓国公に、祖父布拉は司徒鄭国公に、父阿巴は太尉曹国公に贈られ、大定2年に景陵に祔葬された。
- 世宗はかつて「今の女直は前輩に及ばず、親戚の世叙もつまびらかに知ることができない。太后の母は太祖の妹であるのに、人もこれを知らない」と言い、宗叙に「これはお前の父の譚王の妹だが知っているか」と問うと、宗叙は「臣は知りません」と答えた。上は「父の妹すら知らないのだから、疎遠なことについてはなおさらだ」と言った。19年、后の一族の勧農使索囉が致仕を請うたが、宰相は索囉が未だ外任を歴任していないことから一つの外官を除して労佚を均すよう請うた。上は「索囉は政事に慣れておらず民を治めさせられない。太后の親戚として富貴であればそれでよい」として聴かなかった。