海陵母大氏
- 天徳2年正月、図克坦と共に皇太后に尊立された。大氏は永寧宮に居り、曽祖父の豎嗣は司空を、祖父の臣宝は司徒を、父の昊天は太尉国公を、兄の興国努は開府儀同三司衛国公を追贈された。11月、昊天は王に進封された。3年正月16日の海陵の生日、宗室百官を武徳殿で宴し、大氏は歓喜し飲んで大醉した。翌日、海陵は中使を遣わし「太后は御年高く常日は数杯を過ぎない酒を、昨日は沈醉するまで飲まれた。私が天子であれば楽しいのは当然だが、聖体が不和であれば子の心は安からず、その楽しみはどこにあろうか。楽しみは心にあり酒にはない」と奏させた。
- 中都遷都の際、永寿宮のみが上京に独り留められ、大氏はしばしばこれを話題にした。貞元元年4月、大氏が病になり銭十万貫で方薬を求める詔を出したが、病篤くなり、海陵は永寿宮によく仕えるべしとの遺言を残し、戊寅に崩じた。詔で尚書省は隨朝官が5月1日まで治事に及ぶことなく、中都は4月19日から一月楽を禁じ、外路は詔書到達の日から三日治事せず一月楽を禁じ七昼夜鐘を鳴らすこととした。貞元3年の大祥に海陵は後宮を率いて菆宮で奠哭した。海陵が大房山に山陵を遷そうとしていたため大氏はなお菆宮にあった。9月、太祖・太宗・徳宗の梓宮が中都に至り、大氏に「慈憲皇后」の尊謚を贈り、海陵は自ら冊礼を行い徳宗と合葬して大房山に葬り太廟に升祔した。
- 大定7年(1167)、海陵は太妃に降封され皇后の謚号を削られ、宗幹も帝号を降されて遼王に封じられたため、詔して図克坦氏を妃とし、大氏及び順妃李氏・寧妃蕭氏・文妃図克坦氏はいずれも遼王夫人に追降された。