金史卷六十三 列傳第一 熙宗悼平皇后

熙宗悼平皇后

  • 費摩氏。熙宗の即位に際し貴妃に封じられ、天眷元年(1138)皇后に立てられた。父の呼達拜は太尉に贈られ、曽祖父の舎音は司空、祖父の和碩は司徒に贈られた。皇統元年、熙宗が尊号を受けた際、「慈明恭孝順徳皇后」に冊された。2年、太子済安が生まれ、この年熙宗は24歳で大いに喜び大赦を行い天地宗廟に告げ、生後一月余りで皇太子に冊されたが、一年経たずに薨じた。
  • 熙宗の在位中は宗翰・宗幹・宗弼が相継いで政を秉り、帝は臨朝して端黙、初年は国家多事であったが廟算がよく制勝し、斉国は廃され宋人は臣を請い吏は清く政は簡で百姓は業を楽しんだ。宗弼が没し旧臣も多く物故すると、后は政事に干預し憚ることがなくなり、朝官は往々にしてこれに因って宰相を得た。済安が薨じて数年、継嗣が立たず、后はしきりに熙宗を掣制した。熙宗は内に不平を抱き無聊のあまり酒に耽り酗怒して手ずから人を殺すこともあった。
  • 左丞相亮(海陵)の生日に、上が太興国を遣わし司馬光の画像・玉吐鶻・厩馬を賜った際、后も生日礼物を附して賜ったが、熙宗はこれを聞いて怒り興国を杖打ちして所賜を奪い返させた。海陵は本来覬覦の心を懐いていたため、これに因って疑畏がいよいよ甚だしくなり、蕭牆の変(内乱)はここから萌した。近侍の高夀星が例により屯に遷されると后に訴え、后は熙宗を激怒させ左司郎中薩哈を殺させ平章政事秉徳を杖にかけたが、夀星は結局遷されずに済んだ。秉徳と唐古はこれを弁じ姦謀が起こり、海陵はこれに乗じて逆乱の計を成した。
  • 久しくして熙宗は積怒により后を殺し、胙王常勝の妃薩満を入宮させ、続いて徳妃烏庫哩氏、妃瓜爾佳氏・張氏・費摩氏を殺した。翌日、熙宗は弑された。海陵は既に熙宗を弑した後、人心を収めるため后が死んだのは無罪だとして熙宗を東昏王に降し、后を悼皇后と追諡し、后の父呼達を王に封じた。大定間、熙宗の帝号を復し后の諡も「悼平皇后」に加えられ思陵に祔葬された。