序文
- 天下の勢いに常なるものがあろうか。金人は日々干戈を交え諸邦を撫制しその疆域を保ち、遼に対して志を遂げようとしたのは一日のことではなかった。太祖が再び勝ちに乗じて帝位に即くに及び、遼はなお招いて降を促そうとしたが、それは龍が立ち虎が変ずるような勢いを誰が止められようというものであった。以後、使者が八九度往復してもついに約束を定めることができなかった。なぜなら天下を取る者は小節に徇わず、成算が既に定まっている以上、卑辞厚礼によって遼への攻撃をやめることはなかったからである。
- 遼人も計を誤り、宋人もまた計を誤った。海上の盟約の書には「遼を克った後、五代の時に契丹に陥った漢地を下邑として与えられたい」とあるが、これは何と誤った計であろうか。血刃を相向け百戦して得たものを、卑辞厚幣で求めれば、得難いものが易々と人に与えられてしまう。これが人の情であろうか。宋の失策は三つある。三関を撤して故塞を固められず燕山を塞げなかったこと、汴京城下の盟で公私の帑を尽くして質を約し梁楚を立てたが力戦せず、江左で臣を称したこと。金人がどうして宋人を愛して和を結んだであろうか。策は既に失われ、名も既に屈していた。もし高宗が立って徳を帰し、河北を得られずとも河南山東を保てていたなら、そうでなくとも晋の元帝たるを失わなかったであろう。誰がこれを亡ぼせたであろうか。金は四海を奄有できなかったのに、宋人が尊称をこれに与えたのは、誰が強いたことであろうか。
- 金人は高麗に対しては、初めて通好した際は敵国として遇されたが、後に臣を称するに至った。夏国は初め臣を称し、末年には兄弟の礼となった。その国自身は帝を称した。宋は金に対し、初めは臣礼をもって表を称したが、終には姪の礼をもって往復し書を称した。ゆえにその通好の様子と、間に兵争のあった歳を識れば、その盛衰の大旨を観ることができるのである。使者の官は、あるいは本階を、あるいは借授を書き、両国それぞれ旧史に因り必ずしも強いて同じくしない。