金史卷四十五 志二十六 刑

総説

  • 先王は人の畏れを知る性質によって刑を作り、恥を知る性質によって法を作った。畏と恥は五性の良知・七情の大閑であり、刑は既に起きたことを治め、法は未然を禁じ、畏は小人を処し、恥は君子を遇する。金初の法制は簡易で軽重貴賤の別なく刑贖を並用したが、これは新興国家には適しても長く世を経る規範ではなかった。天会以後は次第に吏議に従い、皇統で制を頒布し古律を兼用、正隆でさらに続降制書、大定で権宜条理・重修制条、明昌で律義・敕条・条品式が整い、泰和律義に至って一応の完成を見た。金は杖刑を徒刑に代えて累加すること二百に及び、州県では威を立てるあまり杖に刃を仕込むなど酷薄に流れる面もあり、深文をもって能吏とし惨酷を長才とする気風があった。宗室や大夫士を厳しく処遇する反面、恥を忍んで功名を求める風潮もあった。世宗の代の裁断は律・経に基づき義を制すること近古の人主に稀な例であり、章宗・宣宗もしばしば矜恕の心を示した。

建国初期の刑法

  • 金国の旧俗では、軽罪は柳菱で笞ち、殺人・強盗は脳を撃って殺し、家財を没収して十分の四を官に、六を主に賞し、家人を奴婢とし、親属が馬牛雑物で贖うことも許された。重罪も贖いを聴す場合があったが、齊民との区別が失われることを恐れ劓刵で標識とした。獄は地を掘って作った。太宗はおおむね太祖の旧風を守りつつ遼宋の法も用い、天会七年(1129年)、竊盗の贓額に応じた徒刑・刺字・死刑の詔を出した。熙宗天眷元年(1138年)十月、親王以下の宮衛への佩刀を禁じ、三年(1140年)には河南の民に律文に基づく刑法を約させ獄卒の酷毒な刑具を廃した。皇統年間には本朝旧制に隋唐の制・遼宋の法を兼采した「皇統制」が頒行された。海陵は背に近い箇所への杖決を禁じ、正隆年間には「続降制書」が皇統制と並行した。

大定年間の事例と重修制条

  • 世宗即位後は正隆の乱の後始末として盗賊が横行し、軍前権宜条理が集められた。大定四年(1164年)、妄言を理由に斬に処せられかけた大興の民男女を「愚民は典法を知らず有司の誥戒も足りない」として減死とし、五年(1165年)には有司に条理の刪定を命じた。七年(1167年)、左藏庫夜間の盗殺事件で拷問により誣告を得た経緯が発覚し、真犯人(親軍百夫長額森博勒)の逮捕後、誤って処刑された者への賠償(人ごとに二百貫)を命じ、拷問偏重を戒めた。八年(1168年)、賭博犯の職官には杖刑を科すこととし、九年(1169年)、法官の恣意的な判断を戒め制の正条がない場合は律文を準とすることを定めた。十年(1170年)、父の讐を復した張錦を「烈士」として減死とし、十一年(1171年)、獄舎を獄に近づけ獄卒は経験豊富な者を選び輪直させることを詔した。十二年(1172年)、贓罪の官吏の子孫の敍用制限、盗掘塚墓への告発賞制、贓死した官吏の遺族の処遇などが議論された。十三年(1173年)、立春後立秋前や祭祀月朔望など死刑執行を控える日を定め(強盗は除く)、十五年(1175年)、竊盗贓の死刑基準額を五十貫から八十貫に緩和し、十七年(1177年)、提刑司設置の提案は弊害を懸念して見送られたが、審録官の職務怠慢を戒め、大理寺の判決遅延も問題視された。大定十一年(1171年)前後には正隆続降制書と皇統の制が並用され是非が紛乱していたことから、大理卿伊喇慥を中心に校正局を置き、皇統・正隆の制及び大定軍前権宜条理を整理し、律文で補い、疑義は勅裁を仰いで千百九十余事を校定、十二巻の「大定重修制条」として頒行した。二十年(1180年)以降も踐踏禾稼・盗穀の処罰、姦通殺人の減刑、法寺への文書の重複審査の簡素化、后族の犯罪に対する減刑の可否(世宗は漢の薄昭誅殺の例を引き外戚を特別扱いしないことを明言)、八議の対象範囲、監察御史の職責などが順次議論・制定された。

明昌・泰和年間の律義

  • 章宗大定二十九年(1189年)、民に制書の所持を許すべきかが議論されたが多数の反対で見送られた。明昌元年(1190年)、律と令の区別を明確にする詳定所が置かれ、承安二年(1197年)には軍前受財の贓額に応じた刑罰が定められた。泰和二年(1202年)、大定二十年制定の奴婢婚姻に関する規定と泰和新格の齟齬が問題視され是正された。三年(1203年)、名例篇の校定を皮切りに全篇の校正が進み、四年(1204年)、諸路の枷杖の規格違反が問題視され、五年(1205年)、明昌律義の編纂(律科挙人はなお旧律を用いる)が始まり、知大興府事尼瑪哈鑑・御史中丞董師中ら校定官、大理卿閻公貞ら覆定官が任命された。明昌五年(1194年)、徒刑に対する杖の換算基準(婦人は男子より軽減)が定められ、承安三年(1198年)以降は勅の発布手続きの簡素化、杖の様式の統一(分寸を定め銅で鋳造した「銅杖」の頒布)、監察官の職務規律などが次々整えられた。泰和元年(1201年)十二月、律十二篇(名例・衛禁・職制・戸婚・廐庫・擅興・盗賊・鬬訟・詐偽・雑律・捕亡・断獄)を完成させ、唐律を基礎に贖銅を倍加し徒刑を四年五年から七年まで拡張するなど改変を加え、五百六十三条・三十巻の「泰和律義」として頒布した。あわせて令二十巻(祠令四十八条・戸令六十八条・学令十一条・選挙令八十三条など)、新定勅条三巻(律令二十巻に付す)、六部格式三十巻も定められ、司空襄が進呈し翌年五月頒行された。
  • 貞祐三年(1215年)以降、監察官の犯罪処理、外使・宿衛・災傷検覈・軍儲転運・科挙試験監督などの過失に対する罰則が整えられ、興定元年(1217年)、八議の適用は減等を機械的に認めるものではなく、所坐の状を条示し議定・奏裁を経るべきことが確認された。