金史卷三十八 志十九 禮十一 外国使入見儀・曲宴儀・朝辭儀・新定夏使儀注

外國使入見儀

  • 皇帝が御座に着き鳴鞭・報時・殿前班の小起居を終え、臣僚が丹墀に入り宰執が升殿すると、閤門使が「使者入見」の牓子を奏し、まず宋使副が国書を捧げて入場、閤使が受け取り転読、宋使は上奏・拝礼・聖躬万福の奏を経て「謝面天顏」「謝遠差接伴兼賜湯藥」などを述べつつ舞蹈五拝を重ね、賜衣を受けて退出する。続いて宋人従者、次に高麗使、次に夏使も同様の順序で入見し、拝数や作法に細かな差があるが、いずれも上奏・受勅・致謝・舞蹈五拝という基本構造を踏んだ。最後に三国使が揃って賜酒食の礼を受け退出する。

曲宴儀

  • 皇帝が御座に着き殿前班の小起居ののち、臣僚・使客が合班して丹墀で舞蹈五拝・聖躬万福の奏・謝宴の舞蹈五拝を経て上殿し、宋使従人も同様の礼で左廊に列する。果床が入り進酒すると殿上下の侍立官が再拝し、致語・鼓笛・口号を経て複数回の酒盞・食事が進められ、教坊の謝恩ののち皇帝が退座、臣使も謝宴して退出する。

朝辭儀

  • 皇帝が御座に着き、まず夏使、次に高麗使、次に宋使が丹墀で聖躬万福の奏・戀闕の致詞・舞蹈五拝を重ね、宋使には賜衣馬・別録物の受け渡し、国書の受け渡しなどがあり、「各好去」の声で退出する。熙宗の時、夏使の入見が「大起居」に改められ、宋使は三品班、高麗・夏使は五品班に列することが定制とされた。皇統二年(1142年)六月、臣使の辞見の服色・拝数は常朝の起居に準じ、三国使の班品は旧のままとすることを定めた。入見の順は宋・夏・高麗、朝辭の順は夏・高麗・宋と逆順であった。夏・高麗の朝辭の賜は会同館で使者を遣わして賜り、宋使のみ庭で授けた。旧、高麗使には私進の礼があったが、大定五年(1165年)、宋・夏使にはこの礼がないのに小国のみあるのは不釣り合いとして廃止された。六年(1166年)、外国使の初見・朝辭は左掖門、朝賀・賜宴は応天門東偏門を用いることを詔した。大定二十九年(1189年)三月、章宗は諒闇(服喪)中を理由に宋使の朝辭を免じようとしたが、太常寺が国書の授受や伝語に支障が出ることを懸念し、まず宋使が霊幄で辭し、その後仁政殿で朝辭・授書することとなった。当時、右丞相襄は、熙宗の聖誕が七月七日で景宗の忌辰と重なるため翌日にずらした前例、章宗の聖誕(正月十七日、外国の賀を受ける日)が雨潦の時期にあたる懸念を述べ、正月十一日か三月十五日を聖節とし宋の使が過界する期日とするよう提案したが、平章政事張汝霖・叅知政事劉瑋らは信を示すため期日を安易に改めるべきではないと反対し、御史大夫唐古貢・中丞李宴・刑部尚書兼右諫議大夫完顔居貞らも同調した。しかし結局は襄の議を用い、有司が使者に聖誕の実情を伝え日を改めて優待することとなった。承安三年(1198年)正月、皇帝は花宴で殿上に肴饌を設けず休憩時に廊下で供する宋の慣例に倣うべきかを諮問し、有司は酒食の順序について両国の慣例の違いを説明しつつ従前どおりとした。正大元年(1224年)十月、夏国が修好を求めて遣使し、二年(1225年)九月に和議が成り兄事の礼で各々本国の年号を用いることとなった。夏は天会年間の議和以来八十余年臣属していたが貞祐初に小さな侵掠があり十年両国とも疲弊した末に兄弟の国として和が成った。十月、礼部尚書鄂屯良弼・大理卿費摩欽甫・侍御史烏克遜弘毅を報成使とし、三年十月、夏の告哀に対し中大夫完顔履信を弔祭使としたが、夏側の兵事により使聘は停止され、四年に王立之を遣わしたが復命前に夏は滅んだ。

新定夏使儀注

  • 夏国使副及び参議各一、上節中節各五、下節二十四で「三節人従」と呼ばれた。行省が接伴使・書表人を境で迎え、京兆行省・河南行省で来宴を賜り、京師に近づくと内侍が湯薬を持って尉氏県で出迎え、会同館(旧名燕賓館、承安三年に恩華館と改称)で来使一行を迎える。三節人従は会同館で聚廳の儀を経て館伴使・接伴使と相見し、館伴の書表・牽攏官とも参見する。皇帝は使者を撫問する使を遣わし、来使は望闕・拝礼・国書の授受などの一連の礼を経て館伴と対行し、湯酒・果殽・茶を供される。翌日には酒果を賜る使が遣わされ、閤門副使が習儀のため来館し、第三日に入見の礼が行われる。
  • 入見の日、質明に三節人従が服を整え、館伴と来使副が馬に乗り左掖門外まで進み、殿上で国書を奉呈し、閤使が受けて転読、使副は「弟大夏皇帝、兄大金皇帝を問候し聖躬万福ならんことを」と述べ、皇帝が夏皇帝を宣問する。以下、丹墀での礼物の授受、聖躬万福の代奏、皇帝の労問への謝恩、天顏拝謝、接伴への謝辞などを経て賜衣・都管上中節の入見・下節の万歳三称の礼が続く。館伴・使副は幕次に戻り宴を賜り、押伴使による賜宴の礼(褥位での拝謝・上聞・対行・湯酒殽茶の饗応・都管上中節への勧酒)を経て第四日には賜宴天使による御宴、第五日には稱賀の礼、第六日には賜分食・酒果、第七日には曲宴、第八日には奉辭の儀(丹墀での聖躬万福の奏・戀闕の致詞・舞蹈退出)、第九日には聚廳・送別が行われた。使が界に近づけば接伴使、館に至れば館伴使、去る際は送伴使がそれぞれ副とともに任じられ、書表官が随行し、行省の来宴・回宴の押宴官も行省が差配した。賜宴の天使は閤門祗候が務め、詔書・口宣は都省で禀命し翰林院が撰した。夏使が来た際は市での貿易を許すこともあり、館伴使副・監察奉職・省令史・書表・総領提控官・酒食官・監厨・牽攏官三十・尚食局直長・厨子・儀鸞直長・門官・巡防軍・雑役軍・司吏・厨子・医官・鞍馬などが人員として配され、賜衣・幣帛・生餼(銀・帛での代替)・金帯・鞍轡なども細目が定められていた。