金史卷三十六 志十七 禮九 國初即位儀・受尊號儀・上壽儀・朝參常朝儀・肆赦儀・臣下拜赦詔儀
國初即位儀
- 収国元年(1115年)春正月壬申朔、諸路の官民耆老が集まり新儀を議して皇帝位に上らせる礼を創始した。阿里罕・宗翰が九つの祝を捧げて田を耕し民を養う意を陳べ、良馬九隊(一隊九疋)と甲冑・弓矢・矛剣を献じて国号「大金」を上り建元「収国」とした。天会元年(1123年)九月六日、皇弟安班貝勒が皇帝位に即き、己未の日に天地に告祀し、丙寅の日に大赦・改元した。
受尊號儀
- 皇統元年(1141年)正月二日、太師宗幹が百僚を率い皇帝の尊号奉上を三度にわたり請い、詔で許された。七日、上京留守奭を遣わして天地・社稷に、析津尹宗强を遣わして太廟に告げ、十日、帝は衮冕を服し元和殿に御して宗幹が百僚を率い冊礼を奉り、冊文で「崇天體道欽明文武聖德皇帝」の尊号を上げた。この日、皇帝は通天冠に改め二品以上の官及び高麗・夏国の使を宴し、十二日に祖廟へ恭謝し宣和門に還御、大赦・改元した。
- 大定七年(1167年)、皇帝尊号を恭上する三日前に天地・宗廟・社稷へ奏告する使を遣わし、前二日には諸司の刑罰文字の上奏を停め、百官は大安殿庭で儀を習い、兵部が黄麾仗を大安殿門の内外に設け、宣徽院は前一日に大安殿中間に受冊宝壇を設け壇上に御榻、殿門外に冊宝の幄次、殿東廊に皇太子の幕次、大安門外に群官次を設けた。大楽令・協律郎は宮縣・登歌楽架・舞表を設け、当日質明、奉冊太尉・奉宝司徒・読冊中書令・読宝侍中以下の行事官が集まり、冊宝を応天門から大安殿門外の幄次に迎え、太常卿・大楽令が工人を率いて入場、文武群官が朝服で殿階下に並び、符宝郎が八宝を御座の左右に置く。攝侍中の中厳・外辦の奏に続き、皇帝は衮冕を着し出御、太尉以下が冊・宝を捧げて群官の再拝ののち第一墀の香案南で冊宝を安置し、太常博士らが群官を導いて再び合班・北向させ、太尉司徒中書令侍中吏部禮部侍郎らを再び冊宝の所へ導いて冊宝床を挙げさせ、冊を太常卿の先導で殿へ昇らせ褥位に安置、太常博士が退いた後、捧冊官・挙冊官が対して冊を捧げ、中書令が跪いて「中書令臣某、読冊す」と称して冊文を読み上げ、宝も同様に侍中が読み上げた。その後、太尉・司徒が百僚の位に至り再拝、攝侍中が制を宣し、皇帝の万歳を三称する再拝を重ね、最後に礼畢を奏して皇帝は東房に退き、百官は退出して上壽の宴を待った。
- 上冊寶の礼が終わると別に曲宴の儀があり、羣官の合班・起居・宣徽使による上壽の奏請ののち、上公が進酒し皇帝が受けて飲み、王公以下に「公らと共に慶ぶ」旨を宣し、羣官は舞蹈・再拝を重ねて殿に昇り宴に列した。楽は宮縣・登歌が交互に奏され、三爵の進酒ごとに『聖德昭明』『天賛堯齡』『慶雲』などの曲が奏され、羣官の飲食・徹饌・礼畢の奏があって皇帝は退座した。
元日聖誕上壽儀
- 皇帝が御座に着くと、皇太子・臣僚・使客が合班して丹墀に至り舞蹈五拝ののち、閤使が「諸道の表」を奏し皇太子以下が再拝、皇太子が升殿し盞盤を捧げて進酒、皇帝が受け取り置くと皇太子は褥位に戻り、二閤使が欄子内に至って拝跪し「元正啓祚、品物咸新、恭みて惟るに皇帝陛下、天と同に休あらんことを」(聖節ならば「万春令節、謹みて壽巵を上る」)と致詞し、殿下の羣僚も皆再拝、宣徽使が「有制」と称すると皆再拝し「履新して上壽す、卿らと内外ともに慶ばん」(聖節は「卿の壽酒を得たり、卿らと内外ともに慶ばん」)と宣答があり、舞蹈五拜して斉い立つ。皇太子が盤を執り、群臣が分班し敎坊が楽を奏する中、皇帝が挙酒すると殿上下の侍立臣僚が皆再拝し、以下、宋・高麗・夏の使人が順に進み奏事・拝礼・賜酒食・進酒の礼を行い、致語・口号ののち食事を終えると謝宴の舞蹈五拝で退出する。大定六年(1166年)正月、大安殿で皇太子以下百官・外国使の賀を受け宴を賜り、文武五品以上の侍坐を定員とすることを常制とした。十七年(1177年)、皇族で袒免以上の親は官爵封邑がなくとも宴に班次を持つべきとされ、唐典に倣い皇家周親は三品、大功親は四品、小功尊属は四品、小功親は五品、緦麻尊属は五品、緦麻・袒免以上は六品に準じることとなった。
朝參常朝儀
- 天眷二年(1139年)五月、常朝及び朔望の儀を定め、前代の制に準じ朔・六日・十一日・十五日・二十一日・二十六日を六参日とし、後に朔望日を朝参、それ以外を常朝とした。朝参の日、百官は卯時に幕次に至り、皇帝は辰刻に視朝、司辰が入殿し報時ののち皇帝が着座し鳴鞭・閤門の報班を経て、宿衛官・祗応官の起居、弩手傘子の山呼起居、親王・文武百僚の入場・起居・舞蹈五拝、宰執の升殿奏事という順で進む。殿中侍御史・修起居注官が位置し、寶匣の管理や封印の作法も定められた。常朝では親王の退出後に七品以上の職事官が入場・再拝し宰執が升殿する。大定二年(1162年)五月、五品以上は朝参に朝服で局に入り治事の際は皂を展べることとし、七品以上職事官は朔望に、五品以上は日常の朝日に、六品以下は本司局で治事することとされ、記注院官などは五品未満でも朝参に赴くこととされた。使客の朝辞・見参や元日・聖節・拝詔・車駕出猟なども七品以下の散官まで参加させることとした。班首が故障で不参の際は次席が押班し、五品以上及び侍御史・尚書諸司郎中・太常丞・翰林修撰・起居注・殿中侍御史・補闕拾遺は召に応じ或いは仮一月以上の際も通班で入見・辞謝させ、殿門外での見謝班は舞蹈七拝、辞班は四拝、門見謝辞は再拝とした。
肆赦儀
- 大定七年(1167年)正月十一日、尊冊礼を終えた十四日に応天門で頒赦した。十一年(1171年)も同様の制で、宣徽院が応天門の内外に陳設し御座を門上に、更衣の御幄を大安殿門外に設け、閤門使が制書箱を、少府監が楼下の左に鶏竿を立て竿上の大盤に金鶏(口に絳幡を銜え「大赦天下」の四字を金書して巻き込む)を置き、盤の四隅に大鉄環と朱索を垂らして四人の伎人が攀じ登れるようにした。制書を捧げる木鶴仙人も紅縄を通し轆轤で御前欄子上に導く仕掛けを設け、兵部が黄麾仗を門外に、刑部・御史臺・大興府が囚徒を仗外に集め、文武百官・典儀・皇太子の侍立褥位・致賀褥位なども定めた。皇帝は齋殿から更衣し常服で輦・輅に乗り応天門に至って御座につき、扇の開閉・鳴鞭とともに文武羣官が合班して再拝、侍中が制書樹金鶏を宣し、大楽署が鼓を撃つと竿木の伎人が四人がかりで登り絳幡を取って示し万歳を三称する。乗鶴仙人が制書を綱を伝って降ろし、閤使が受けて班前で「有制」と称し、群官の再拝ののち尚書省長官が制書を受け右司官が宣読、罪人が枷を脱いで万歳を三称する。以下、皇太子の致詞・宣答・群官の再拝・舞蹈が続き、最後に皇帝は輦で還宮した。
臣下拜赦詔儀
- 赦を宣する日、応天門外に香案・香輿を設け、皇太子・宰臣以下が序班し、閤門官が箱から赦書を出して案に置き「有勅」と称すると皇太子・宰臣・百僚が再拝、皇太子が進んで上香し再び再拝、閤門官が赦書を尚書省都事に授け、令史二人と共に卓子に昇り読み上げ、在位官は跪いて聴く。読み終わると皇太子・宰臣・百僚は再拝・舞蹈・万歳三称して退く。禇書(除書)の場合も同様だが万歳は称さない。外郡では尚書省が官を差して赦書を送り、府節鎮の長官は僚属を率い旗幟音楽・綵輿・香案を備え五里外まで出迎え、赦書を綵輿に移し香案前で上香、公庁に迎えて案・望闕褥位を設け「有勅」と称し長官以下が再拝・上香・再拝ののち都目・孔目官が卓上で読み上げ、長官以下は再拝・舞蹈・万歳三称して礼を終え、翌日、長官が僚属・音楽を率いて郭外まで見送った。