金史卷三十五 志十六 禮八 宣聖廟祠・武成王廟・諸前代帝王・祈禜・拝天・本國拝儀

宣聖廟

  • 皇統元年(1141年)二月戊子、熙宗は文宣王廟に詣で北面して再拝し、儒臣に「善を為すことを勉めねばならぬ。孔子は位がなくともその道は尊むべきで、万世に仰がれるのはこのためだ」と語った。大定十四年(1174年)、国子監は毎年春秋仲月の上丁日に文宣王を釈奠する際の器物・次序が古礼に十分合致していないとし、京師が四方の観仰する首善の地であることから典章を整えるよう建議した。兖国公(顔回)は聖教を親承した者、鄒国公(孟子)は聖教を扶けた功があるとして宣聖像の左右に列すべきとし、孟子像を宣聖の右に遷して顔子と相対させ、冠冕・粧飾も旧制に倣うこととした。礼官は唐開元礼を参酌し、文宣王・兖国公・鄒国公は各籩豆十・犠尊一・象尊一・簠簋各二・俎二・祝版各一、七十二賢・二十一先儒は各籩一・豆一・爵一、両廡には各象尊二を設け、総じて籩豆各二百二十三・簠簋各六・俎六・犠罇三・象罇七・爵九十四などを用いることとした。牲は羊豕各三、酒二十瓶、礼は三献とし祭酒・司業・博士を分献官二にあて、迎神・初献盥洗・升階・奠幣・降階・兖国公酌献・鄒国公酌献・亜終献・送神の各段でそれぞれの楽曲(来寧・静寧・粛寧・和寧・安寧・輯寧・泰寧・咸寧の各曲)と歌辞が用いられた。承安二年(1197年)春丁、章宗は親祭し親王が亜終献を摂り、皇族が陪祀、文武群臣が助奠し、自ら賛文を作った。旧に公に封じられていた賢人は国公に、侯であった者は国侯に昇格され、郕国以下は皆侯に封じられた。宣宗が汴京に遷ってからは会朝門内で毎歳の祀を続け、宣聖・顔・孟には各羊一・豕一を用い他は小祀に準じ羊八を共用し豕は用いなかった。諸州の釈奠も唐儀に従った。

武成王廟

  • 泰和六年(1206年)、闕庭の右・麗澤門内に昭烈武成王廟を建てるよう詔があり、制度は唐の旧に一遵し、三献官は四品官以下、儀は中祀に準じ二月上戊に行うこととした。七年(1207年)、完顔匡らは本朝創業の功臣も配祀すべきと言い、秦王宗翰を張良に代えて武成王に配し、管仲以下を降格して楚王宗雄・宗望・宗弼らを武成王の侍坐に、韓信以下を廡に降ろし、王猛・慕容恪ら二十余人を黜けて金の功臣遼王賽音らを加えた。祭祀では武成王・宗翰・張良に各羊一・豕一、他は羊八を共用し豕は用いなかった。宣宗遷汴後は会朝門内・闕庭の右に廟を営み、春秋上戊の祭は旧のとおりとした。

諸前代帝王

  • 三年に一度、仲春の月に、伏犠を陳州で、神農を亳州で、軒轅を坊州で、少昊を兖州で、顓頊を開州で、高辛を帰徳府で、陶唐を平陽府で、虞舜・夏禹・成湯を河中府で、周文王・武王を京兆府で祭る。泰和三年(1203年)、尚書省は太常寺の言により、開元礼で祭る帝嚳・堯・舜・禹・湯・文・武・漢祖の祝版は御署を要するが、開宝礼の犠・軒・顓頊・帝嚳・陶唐・女媧・成湯・文・武も御署を求めた。平章政事鎰・左丞匡・太常博士温特赫天興は方嶽の神は各々主る所があり国に頼るものであるから御署が当然であるが、前古の帝王は事跡がほとんど伝わらず中祀に列するだけでも厚遇であり御署は不要と論じた。参知政事即康及鉉は三皇五帝・禹湯文武は世を垂れ教えを立てた君であり唐宋も御署して祭ってきたのに祝版を降して署さないのは礼として不十分と論じた。結局、外路で社稷や釈奠文宣王を祭る例に倣い祝版は降さず学士院が祝文を撰して常制とし、勅命は期に依って祝版を降すが署はしないこととなった。

長白山ほか諸神

  • 長白山。大定十二年(1172年)、有司は長白山が興王の地にあるとして尊崇し封爵・廟宇を建てるべきと議し、十二月に興国霊応王に封じその北地に廟宇を建てることとした。十五年(1175年)三月、封冊の儀物(冠九旒・服九章・玉圭・玉冊函・香幣冊祝)を定め、正副の使を会寧府に遣わし行礼させ、儀は一品に準じ三献の礼を嶽鎮に準じて行った。冊文には、山岳の神秀が興国の由来を助けたことを述べ、興国霊応王に封じ、有司に歳時奉祀を命じる旨が記された。以後毎歳、香を降して春秋二仲に致祭し、明昌四年(1193年)十月には衮冕玉冊の儀物を備え大安殿に御し黄麾立仗八百人・行仗五百人を用いて再冊し「開天弘聖帝」とした。
  • 大房山。大定二十一年(1181年)、山陵の地の大房山神を保陵公に封じ(冕八旒・服七章)、圭冊香幣を使副が節を持ち行礼した。冊文は、燕に都を定めるにあたり大房山が万民の瞻仰する地であり祖宗の陵寝が拠るところであるとし、爵号を侯伯の上に列することを述べた。以後、山陵行礼の終わりには山陵官が一献の礼で致奠した。
  • 混同江。大定二十五年(1185年)、太祖が遼を征する際にこの川を馬で渡って神助を得た故事から、神を興国応聖公に封じ、長白山と同様の儀・保陵公と同様の冊礼で祭った。冊文には太祖武元皇帝が遼を討つ際、大河を舟なくして渡ったことは周の穆王や後漢の光武帝の故事にも勝るとし、山川の神を五嶽三公・四瀆諸侯に準じて上公に封じるべきとする趣旨が記された。
  • 嘉蔭侯。大定二十五年(1185年)、上京護国林神を護国嘉蔭侯に封じ(毳冕七旒・服五章・圭は信圭に同じ)、三献の礼で祭告し、以後毎月七日に上京の幕官一員が行香することを定式とした。
  • 盧溝河神。大定十九年(1179年)、盧溝河の水勢が民田を浸食するため封冊すべきと有司が言ったが祀典に載らないため難色を示し、後に特に安平侯に封じ廟を建て、二十七年(1187年)本県の長官が春秋に致祭することとなった。
  • 昭應順濟聖后。大定十七年(1177年)、都水監は陽武上埽の黄河神聖后廟を五龍祠の故事に依り仲春に祭るべきと言い、二十七年(1187年)正月、尚書省は鄭州河陰県の聖后廟が前代からの水害鎮撫の霊験により禱れば応じるとして封号・廟額の加増を請い、昭應順濟聖后・靈德善利之廟の号を加え、本県長官が春秋致祭することとなった。
  • 鎮安公。旧名旺国崖、太祖が遼を伐つ際にここに駐蹕した縁で、大定八年(1168年)五月に静寧山と改名し廟を建て、明昌六年(1195年)八月、冕服玉冊を以て山神を鎮安公に冊した。冊文には、古の名山がみな祀典にあり、殿寧山が世宗の駐蹕地であることを踏まえ神を鎮安公に封じることが記された。
  • 瑞聖公。すなわちマダゲ山。章宗がここで生まれ、世宗がこの山の勢を愛して章宗に命名させ、後にフトゥリバ山と改名して廟を建てた。明昌四年(1193年)八月、冕服玉冊を以て山神を瑞聖公に封じ、撫州の有司に春秋二仲の致祭を命じた。
  • 貞獻郡王廟。明昌五年(1194年)正月、上言者は頁嚕・古紳の両賢が女直文字を創製したことにより封爵と祠廟を建て、女直・漢人の諸生に孔子廟参拝の後にここも拝させるべきと請うたが、有司は頁嚕には致祭が難しく、金源郡貞獻王古紳はすでに太廟に配享されており特別に廟を立てるのも難しいとした。旨があり再議した礼官は、前代に文字創製で孔子廟に入った故事はないが廟後や左右に祠を置き諸儒に参拝させることは差し支えないとしたが、尚書省はそれでは国家が功臣を厚遇する意に沿わないとして、蒼頡廟を盩厔に立てた例に倣い上京の納爾琿荘に廟を立て、本路官一員と本千戸が春秋致祭し、費用は適宜給することとした。

祈禜

  • 大定四年(1164年)五月、雨が降らず礼部尚書王競に北嶽への祈雨を命じ、定州の長貳官を亜終献とした。また都門北郊で嶽鎮海瀆を望祀する日を占い、有司が行事し礼は酒脯醢を用いた。七日を経ても雨がなければ太社太稷に祈り、さらに七日で宗廟に祈り、嶽鎮海瀆にも初回同様祈った。神座を設け尊罍を実するのは常儀のとおりだが、罇罍には瓢を用い甘瓠を選んで底を抜き罇とした。祝版は五嶽・宗廟・社稷のみ御署し他は署さなかった。十日を経てなお雨がなければ市を移し屠殺を禁じ繖扇を絶ち、土竜を作って祈雨し、雨が足りれば報祀して竜を水中に送った。十七年(1177年)夏六月、京畿が久雨に見舞われた際は祈雨の儀に倣い諸寺観に道場を開かせ祈禱させた。

拝天

  • 金は遼の旧俗により、端午・中元・重陽に拝天の礼を行った。端午は毬場で、中元は内殿で、重陽は都城外で行う。作法は木をくり抜いて盤を舟の形に作り、赤を地とし雲鶴の文を画いて架とし高さ五、六尺の上に盤を置いて食物を供え、宗族を集めて拝させる。至尊の礼は常武殿に台を築いて拝天所とした。端午の日、質明に陳設を終えると百官が毬場楽亭の南に班を待ち、皇帝が靴袍で輦に乗り毬場の南門から入って拝天台で輦を降り褥位に至る。皇太子以下百官も褥位に詣で、宣徽使の先導で皇帝が再拝・上香・再拝、食を排し盞を抛ち、また再拝して飲福酒を跪いて飲み、また再拝すると百官が陪拝する。皇太子以下を先に退出させ皇帝は輦に戻り更衣し、射柳・撃毬の戯を行うのも遼の俗である。射柳は毬場に柳を両行に挿し、各々尊卑の順に帕でその枝を標し地から数寸のところで皮を削って白くし、まず一人が馬で先導し、後の者が馬を馳せながら羽のない横鏃の箭で射て、柳を断ち手で受けて馳せ去る者を上とし、断つが受けられぬ者を次とし、青い部分だけ断つか当たっても断てぬ者を負けとした。射るたびに鼓を打って気勢を助けた。続いて撃毬は各自乗り慣れた馬に乗り鞠杖(端が半月形)を持ち、二隊に分かれて一つの毬を争い、毬場の南に立てた双柱の板下に穴を開け網を張った門に毬を打ち入れた方を勝ちとするか、あるいは両端に対立する二門を互いに攻める形で門を出た方を勝ちとした。毬は拳ほどの大きさで軽く靭やかな木の中を空にして朱塗りにしたもので、いずれも敏捷さを鍛えるためのものであった。終われば宴を賜るのを毎年の常とした。

本國拝儀

  • 金の拝礼は、まず袖手して微かに身を俯せ、やや体を後ろに引いてから左膝をついて跪き、左右の肘を揺らして舞踏のような動きをする。跪いて袖を揺らして下は膝を、上は左右の肩に至るように動かすことを四度繰り返し、右膝を手で押さえて片膝の左膝で跪き礼を成す。国語で「手を揺らして拝する」ことを「禪珠喇」という。承安五年(1200年)五月、皇帝は有司に「女直・漢人の拝数は相従わせてよいので折衷して議せよ」と諭した。礼官は周官の九拝のうち稽首は最も重く臣が君を拝する礼であるとし、今後は公服のときは漢の拝を、便服のときは各々の本俗の拝を用いるべきと奏した。主事陳松は「本朝の拝礼は久しく行われており、これは便服の拝である。公服のときは朝拝、便服のときは本朝の拝とすればよい」と述べ、平章政事張万公は拝礼は各人の慣れに任せ改める必要はないとし、司空完顔襄は「今、諸人の衽・髪はみな本朝の制に従っている。本朝の拝礼に従うべきで、陳松の言は正しい」と述べた。皇帝は最終的に、公裳のときは朝拝、諸色人が便服のときはみな本朝の拝を用いるよう命じた。