金史卷二十三 志第四 五行

五行志の趣旨

  • 五行の精気は天にあっては五緯となり、地にあっては五材となり、人にあっては五常および五事となる。五緯を天文に志すことは歴代皆然り、その形質は地にあり性情は人にあり休咎は各々その類をもって両間に感応する、歴代にはまた五行志がある。両漢以来の儒者、夏侯勝の徒のような者は専ら洪範五行を学とし、史を作る者の多くはその説を采り、凡そ某徴の休咎を言えば某事の得失をこれに繋げ五行に配し、それが尽くそのとおりであるとすればその弊は付会を免れず、そうでないとすれば「粛時雨若」「蒙恒風若」の類は箕子がかつて言ったことである。金の世は未だ天下を一にできず、天文災祥にはなお星野の説がある。五行の休咎が国内に見られるものは他に諉ることができないので、乃ちその史氏の書いた所を彙め前史の法により五行志を作る。五常五事の感応に至っては必ずしも漢儒に泥んで例とする必要はない。

金の興隆にまつわる瑞異

  • 初め金の興、諸部を平定するにあたり屡々禎異があった。ゆえに世祖は敵と戦うたびに夢寐によりその勝負を占った。烏春の兵が蘇蘇海甸に至った時、世祖は「予は夙昔異夢あり、親戦すべきでない、もし左軍に力戦する者があれば克つはずだ」と言い、まもなく粛宗らとこれを撃つと敵は大敗した。太祖が生まれた時、常に五色雲気が二千斛の囷廩のような状で屡々東方に現れた。遼の司天孔致和は「その下には当に異人が生まれ非常の事を建てるであろう、天が象をもって告げるのは人力の能くする所ではない」と言った。温都部のバトゥが叛くと穆宗は太祖を派してこれを討たせ、太祖が入って辞するにあたり「昨日赤祥を見ました、往けば必ず克つでしょう」と奏し、遂にバトゥと戦いこれを殺した。穆宗がアスを攻めた時、日の辰巳の間、忽ち暴雨があり昏曀雷電がアスの居所を環り、この夕、巨火が雷のような音を立ててアスの城中に墜ちた、遂にこれを攻め下した。
  • 太祖がかつて寧江に往いた時、威泰の禾場が焼かれ頃刻に尽きる夢を見て覚めて大いに戚(うれ)い、即ち馳せ還ると威泰は既に疾に寝ており翌日起きなかった。烏色が高麗を伐った時、太祖が臥して夢を得て亟起し「今日必ず捷音が至るであろう」と言い、乃ち毬場に具えて待つと二頭の麞が水を渡って至りこれを獲た。太祖は「これは休徴である」と言い、言い終わらぬうちに捷書が至り衆は大いにこれを異とした。他日、寧江に軍し高阜に駐すると、薩哈が仰いで太祖の体が喬松のようで乗る馬が岡阜の大きさのようであるのを見た。太祖もまた薩哈の人馬が異常であるのを見て、薩哈がその見た所を告げると、太祖は喜んで「これは吉兆である」と言い即ち酒を挙げてこれを酹(そそ)ぎ「異日成功すれば当にこの地を識すべし」と言った。師が唐古特旺結の地に次った時、諸軍が介して立つと人足および戈矛の上に光が起こり、明くる日扎扎水に至るとまた光が初めのように現れた。
  • 収国元年(1115年)、上が寧江州にいた時、正円の光が空より墜ちた。八月己卯、黄龍が空中に現れた。丁未、上が遼軍を候い舒吉濼に還ると光がまた矛端に現れた。天輔六年(1122年)三月、師が西京を攻めた時、斗のような火が城中に墜ち、この月城は降ったがまた叛し、四月辛卯、これを取った。

太宗天会年間

  • 天会二年(1124年)、海蘭伊勒呼水が霖雨して稼を害し、また蝗に食われた。秋、泰州が潦により稼を害した。三年七月、錦州の野蚕が繭を成した。九月、広寧府が嘉禾を進めた。四年十月、中京が嘉禾を進めた。六年冬、伊蘭路が饑饉となった。九年七月丙申、上が西楼に御して政を聴いていた時、咸州が貢した白鵲の音が忽ち異常であるのを聞き、上が起きてこれを視ると東楼外に光明の中で像が巍然として高さ五丈許りあり下に紅雲がこれを承け世に謂う仏のようであったので乃ち擎跽して修虔すること久しくして没した。十年冬、伊蘭・海蘭等路が饑饉となった。

熙宗年間

  • 天会十三年(1135年)四月、甘露が盧州熊岳県に降った。十五年七月辛巳、有司が四足雀を進めた。丙戌の夜、京師で地震があった。天眷元年(1138年)夏、龍が熙州の野水に現れ凡そ三日間続いた。初め水面に一頭の蒼龍が現れ良久しくして没し、次の日には金龍が一爪で一嬰児を承け児が龍に戯れられ略無く懼れる色がなかった、三日間このようで、また一人が白馬に乗り紅衣・玉帯をつけ少年官のような状で馬前に六匹の蟾蜍があり凡そ三時にして乃ち没するのが見え、郡人は競ってこれを観に往った。七月丁酉、按春河が水溢れて民の廬舎を壊した。三年十二月丁丑、地震があった。
  • 皇統元年(1141年)秋、蝗があり、十一月己酉、稽古殿が火事になった。二年二月、熙河路が饑饉となり、三月辛丑、大雪があり、秋、燕・西東二京・河東・河北・山東・汴・平州が大熟した。三年、陜西が旱し、五月丁巳、京兆府が瑞麦を貢した。七月丙寅、太原が獬豸および瑞麦を進めた。四年正月乙丑、陜西が嘉禾十二茎(一本に七穎)を進めた。十月甲辰、地震があった。五年閏月戊寅、大名府が牛の生んだ麟を進めた。壬辰、懐州が嘉禾を進めた。七年十一月、完顔秉徳が三角羊を進めた。九年四月壬申の夜、大風雨雷電があり寝殿の鴟尾を震え壊し火が帝の寝所に入り帷幔を焼き、上は懼れて別殿に徙った。丁丑、龍が利州の榆林河上で闘い大風が民居・官舎を壊し十六七の木瓦・人畜が皆飄揚すること十余里に及び死傷者数百人、同知州事舒穆嚕里が圧死した。

海陵年間

  • 天徳二年(1150年)十二月、野人が石炭を採り異香を獲た。貞元二年(1154年)五月癸丑、南京の大内で災があった。三年十二月己丑、雨木氷があった。正隆二年(1157年)六月壬辰、蝗が京師に飛入した。秋、中都・山東・河東で蝗があった。四年十一月庚寅、霜が木に附いた。五年二月辛未、河東・陜西で地震があり、鎮戎・徳順等の軍で大風が廬舎を壊し民の多くが圧死した。海陵が司天馬貴中らに「なぜ地震するのか」と問うと、貴中らは「伏陽が陰に逼るために起こります」と対した。また「震して大風になるのはなぜか」と問うと、「土がその性を失えば地は震で号令とします、人君が厳急であれば烈風および物の災いがあります」と対した。六年六月壬戌、大風が承天門の鴟尾を壊した。この歳、世宗が貞懿皇后の憂に居り遼陽にあった時、ある日寝ると紅光がその室を照らし黄龍が室上に現れた、また夜には大星がその邸に流入した。八月、また雲気が西より来て黄龍がその中に現れ人が皆これを見た。この時臨潢府で空中に車馬の声が聞こえ仰ぎ見ると風雲杳靄の中に神鬼兵甲が天を蔽って北より南し語があって「行くを促す者」と聞こえ、まもなく海陵が南征の詔を下した。

世宗大定年間

  • 大定二年(1162年)閏二月辛卯、神龍殿十六位が焼け太和殿・厚徳殿にも延焼した。三年二月丙申、中都以南八路で蝗があった。四年三月庚子の夜、京師で地震があった。七月辛丑、大風雷雨が木を抜き、臨潢府の境で禾黍が穭生した。嵐州が白兎二を進めた。八月、永興が嘉禾異畝同穎を進めた。中都南八路の蝗が京畿に飛入した。十一月辛丑、尚書省が火事になった。この歳は豊年であった。(五年)五月六月戊子、河南府が芝草十三本(芝田の石上で得たと言う)を進めそのまま太廟に薦めた。甲辰、大安殿の楹に芝が生じその色は玉のようであった。丙申、京師で地震があり音は西北より来て殷殷として雷のようで地に白毛が生じた。七月戊申、また震え、十一月癸酉、大霧で昼が晦かった。七年九月庚辰、地震があった。八年五月甲子、北望淀で大風雨雹があり広さ十里長さ六十里に及んだ。六月、河が李固渡を決し水が曹州に入った。十年正月、鄧州が芝草を進めた。十一年六月戊申、西南路招討司必勒哈水の地で雹が三十余里に降り小さいものでも鶏卵のようで最も大きいものは広さ三尺長さ丈余で四五日してようやく消えた。十二年三月庚寅、雨土があり、四月旱した。
  • 十三年正月、尚書省が宛平の張孝善に子があり合得と言い大定十二年三月旦に疾で死んだが暮に至って復活し「本は良郷人王建の子喜児で、喜児は前三年に既に死んだ」と語り、建が家事で験すとよく具さにこれを言えたので、これは仮屍還魂であり王建に付して子とすべきかと奏すると、上は「もしこのようならば姦倖の小人が競って詐偽を生み人倫を瀆乱するであろう、孝善に付すに止めよ」と言った。八月丁丑、進士を憫忠寺で策試したとき夜半に忽ち音楽の声が東塔上に起こり西に宮に達するのが聞こえ、考官完顔仏寧・李晏らはこれを文運が始めて開き賢を得た兆と為した。十四年八月丁巳朔、珠爾蘇に次った日の午、白龍が御帳の東の小港中に現れ、まもなく雷雲に乗って上り尾はなお地を曵くこと良久しくして北へ去った。十六年三月戊申、豆が臨潢の境に雨のように降り、その形は上が鋭く赤くこれを食べると味は頗る苦かった。五月戊申、南京宮殿が火事になった。この歳、中都・河北・山東・陜西・河東・遼東等十路で旱蝗があった。十七年七月、大雨で滹沱・盧溝の水が溢れ河が白溝を決した。二十年四月己亥、大寧宮門が火事になった。五月丙寅、京師で地震があり黒白の毛が生じた。七月旱した。秋、河が衛州を決した。二十二年五月、慶都で蝗蝝が生じ十余里に散漫したが一夕の大風で蝗は皆見えなくなった。二十三年正月辛巳、広楽園の灯山が焼け熙春殿にも延焼した。三月乙酉、氛埃雨土があり、四月庚子もまた同様であった。五月丁亥、雨雹があり地に白毛が生じた。二十四年正月辛卯朔、徐州が芝十八茎を進め、真定が嘉禾二本異畝同穎を進めた。二十六年正月庚辰、河南府が芝三本を進めた。秋、河が衛州城を決壊した。二十七年四月辛丑、京師で微震があった。

章宗年間

  • 大定二十九年(1189年)五月丁未、地に白毛が生じた。六月、曹州で河が溢れた。十二月、密州が白鶉・白雉各一を進め、河間府が嘉禾を進めた。この冬、雪がなかった。明昌元年(1190年)正月、懐州・河間等処が芝草嘉禾を進めた。二月、地に白毛が生じた。六月庚子、都水が異卵を進めた。夏旱し、七月に淫雨があり稼を傷めた。二年五月、桓撫等州が旱した。秋、山東河北で旱饑があった。三年秋、綏徳で虸蚄虫が生じ旱した。四年三月、御史中丞董師中が奏し「先ごろ太白が昼見し京師で地震が起こり北方に赤気があってようやく明ける頃に散った、天の象を示すのはこれをもって聖主に警悟させることを冀うためであろう」と言った。上が「その言う天象はどこから得たのか」と問うと、師中は「前監察御史陳元升がある司天長行から得た」と対した。上は「司天台官が奏しないのは固より罪がある、それを人に語るのはなおよくない、今より司天が事があって奏さないものは長行がこれを言えるようにしてはどうか」と言うと、師中は「善し」と言った。五月、霖雨があり有司に晴れを祈らせた。六月、河が衛州・魏・清・滄を決し皆害を被った。この歳、河北・山東・南京・陜西の諸路が大熟した。邢・洺・深・冀および河北西路十六穆昆の地で野蚕が繭を成した。十一月壬午、木氷があった。
  • 五年七月丙戌、天寿節、先に陰雨が連日続いていたがこの時に至り開霽すると龍が殿前の雲間で尾を曵くのが見えた。この月、河が陽武の故堤を決し封邱に灌ぎ東した。六年二月丁丑、京師で地震があり大雨雹があって昼が晦く、大風で応天門右の鴟尾が壊れた。八月、大雨雷電があり龍が渾儀の鼇雲水趺の下に起こり台が忽ち中裂して摧け儀が台下に仆れた。

承安・泰和年間

  • 承安元年(1196年)五月、正月より雨がなくこの月に至って雨が降った。六月、平晋県の民利通家の蚕が自然に綿段を成し長さ七尺一寸五分幅四尺九寸であった。二年、正月から四月まで雨がなく、六月丙午、雨雹があった。四年三月戊午、雨雹があり、五月旱した。五年五月庚辰、地震があった。十月庚子、天が久しく陰り、この日雲色が黄で風霾となり、癸卯の晨は陰り霜が木に附き日入に至ってもまた同様であった。
  • 泰和二年(1202年)八月丙申、磁州武安県の鼓山石聖台に大鳥十羽が台上に集まり、その羽は五色に爛然としその文は赤黄赭が多く冠は鶏のようで項は尾が闊く長く状は鯉魚の尾のようで長く高さは人を超え、九子はやや小さく傍らに侍るのもまた高さ四五尺、禽鳥は万を数え形色は各々異なり、あるいは飛びあるいは蹲りあるいは歩みあるいは立ち皆行列を成しその首は皆正しく朝拱するように向き、初め東南より来た勢いは連雲のようで声は殷雷のようで林木が震動し、牧者は驚惶して即ち牛を駆り物を撃ってこれを驚かそうとしたが殊に動かず、俄かに鵰鶚のような大鳥が怒って来て搏撃すると民はますます恐れ奔って県官に告げ、皆鳳凰であると為した。工に命じて図に描かせて上呈させ二日留まって西北へ去った。その処を按視するとその糞跡は数頃にわたりその色は各々異なり遺禽は数千にのぼり累日去ることができなかった。食べていたものは皆巨鯉で大きいものは丈余、魚骨が地を蔽っていた。章宗はこの事を宗廟に告げ中外に詔した。三年四月旱し、十月己亥、大風があった。四年正月壬申、陰霧木氷があり、三月丁卯、大風が宣陽門の鴟尾を毀った。四月旱した。壬戌、万寧宮の端門で災があった。十一月丁卯、陰木氷が凡そ三日続いた。五年夏、旱した。八年四月甲午、雨雹があり河南路で蝗があった。六月戊子、飛蝗が京畿に入った。八月乙酉、虎が陽春門外に至り駕出で射てこれを獲た。この時また童謡があって「易水流れ汴水流る、百年易は過ぎ又休休、両家都好く住し、前後総に成留す」と言った。至貞祐中に至って国を挙げて汴に遷った。

衛紹王年間

  • 大安元年(1209年)、徐沛の界で黄河が五百余里にわたって清んだ、幾ど二年、この事をもって中外に詔した。臨洮の人楊珪が上書し「河の性は本来濁っているのに今反って清んだのは水がその性を失ったのだ、正に天が動き地が静かなのに当に動くべきものを静かにし当に静かなるべきものを動かすようなもので、これはどうしたことか、これが災異であることは明らかである。且つ伝に『黄河清めば聖人生まる』とあるが、仮に聖人が生まれるとしても恐らくは今日ではない。また『黄河清めば諸侯天子と為る』ともあり、正に戒懼して以て災変を消すべきなのに却って四方に誇り示すのは、臣の未だ理解できないところである」と言うと、宰相はこれを妖言とし誅すことを議したが、言路を絶つことを慮り即ち大興府に詔してこれを鎻し本管に還した。十一月丙申、平陽で地震があり音は西北より来て、戊戌の夜また震え、これより時に復た震動し浮山県が尤も劇しく城廨民舎の圮れたものは十に七八、死者は凡そ二三千人に及んだ。
  • 二年二月乙酉、地が大いに震え音が殷殷然と続いた。六月七月から九月晦に至るまでその震は一定でなかった。十一月、京師の民周修武の宅前の渠内より火が出て高さ二尺、その板橋を焼いた。また旬日して大悲閣の幡竿下の石の隙間から火が出て高さ二三尺、人が近づけば消え凡そ十余日続き、これより都城で連夜燔爇すること二三十処に及んだ。この歳四月、山東河北で大旱し六月に至り雨がまた止まず、民間の斗米は千余銭に至った。三年二月乙亥の夜、大風が西北より来て屋を発き木を折り通元門の関を吹き折った。三月戊午、大悲閣が災に遭い延焼すること万余家、火は五日絶えず、山東・河北・河東の諸路が大旱した。この歳、男子郝賛が省に詣り「上の即位の後、天変がしばしば見え、火が万家を焼き風が門関を折るのは小異ではありません、当に位を退き有徳に譲るべきです」と言い、有司が「お前は狂疾か」と問うと、賛は大言して「我は狂疾ではない、ただ社稷のために計るのみだ」と言い、宰相が皆その言を非とすると毎日省前で大呼すること凡そ半月、上は怒ってこれを誅し事を隠した。崇慶元年(1212年)七月辛未の未の刻、東より風があり帛一段を吹き高さ数十丈、宛転として龍のようで拱辰門内に墜ちた。この歳、河東・陜西・山東・南京の諸路が旱した。二年二月、進士の榜を放つと狂僧があって天子を殺すと公言したが求めても所在が知れなかった。この歳、河東・陜西で大旱し京兆の斗米は八千銭に至った。

至寧元年(1213年)

  • 宣宗の彰徳故園の竹が白花を開き鷺鷥藤のようで紫雲が城上を数日覆い、俄かにして入ってから大統を継いだ。七月、河東・陜西諸路の旱により工部尚書高道拉を派して岳瀆に雨を祈らせ、これに至って雨が足り、この時斗米は一万二千銭に至るものもあった。八月癸巳、衛紹王が弑に遇い、この日海水が潮せず宝坻塩司はその課の虧けを懼れて祷ったが応がなかった。九月丙午、宣宗が即位すると乃ち潮した。初め衛王が即位して改元し大安とし四年に崇慶と改め、まもなくまた至寧と改めると、ある人が「三元大崇(は)至れり」と言い、俄かにして呼沙呼の変があった。

宣宗貞祐年間

  • 貞祐元年(1213年)八月戊子夜、明けようとする頃、大霧が蒼黒で跂歩しても見える所がなく、辰巳の間に至って始めて散った。十二月乙卯、雨木氷があった。この時衛州で童謡があって「団圞冬、劈半年、寒食節、没人煙」と言った。翌年正月、元兵が衛を破り遂に丘墟となった。二年六月、潮白河が溢れ古北口鉄裹関門から老王谷に至るまで漂した。庚申、南京の宝鎮閣が災に遭った。壬戌、上が宜村に次った時、黄龍が西北に現れた。冬、黄河が陜州界から衛州八柳樹まで清むこと十余日、繊鱗が皆見えた。十二月己酉、雨木氷があった。三年二月戊午、大風で隆徳殿の鴟尾が壊れた。三月戊辰、大風霾があった。四月、去冬より雨がなくこの月に至った。五月、河南で大蝗があった。六月、京城中で夜に妄りに相驚いて狼を逐うこと月余りしてようやく息んだ。十月丙申の昏、西北に霧気があり積土のようで二更に至り散った。四年正月己未の旦、黒霧が四塞し巳の時に至って散った。この春、河朔で人が相食んだ。五月、河南・陜西で大蝗があり、鳳翔・扶風・岐山・郿県で螟虫が麦を傷めた。七月旱した。癸丑、飛蝗が京師を過ぎた。

興定年間

  • 興定元年(1217年)三月、宮中に蝗があった。四月、単州で雹が稼を傷めた。陳州商水県が瑞麦一茎四穂を進め、開封府が瑞麦一茎三穂・二茎四穂を進めた。五月乙丑、河南で大風が府門の署を吹き去った。延州原武県で雹が稼を傷めた。七月癸卯、太社壇に嘉禾一茎十五穂が生じた。秋に霖雨があった。十月、邠州が白兎を進め、丹州が嘉禾異畝同穎を進めた。二年四月、河南諸郡で蝗があった。五月、秦陜で狼が人を害した。六月旱した。この歳、京師で屡々火があり礼部尚書楊雲翼を派してこれを祓った。三年春、吏部が火事になった。四月癸未、陜右で黒風が昼起こり音は雷のようで、まもなく地が大いに震え平涼・鎮戎・徳順が最も甚だしく廬舎が傾圧し死者は万を数え雑畜はその倍に及んだ。夏、旱した。十二月壬申、雨木氷があった。四年正月戊辰の二更、天鳴の音があった。壬子、昼が晦く時をおいて大雷風雨があった。四月丁丑、大風が河南府の署を吹き百余歩飛ばし戸案門鑰が開き文牘が飄散して所在が知れなくなった。六月旱した。七月、河南で大水があり唐鄧が最も甚だしかった。十二月癸酉、火があった。この歳、華州渭南県の民裴徳寧の家が木を伐るとその中に赤色の「太」字が表裏脗合しているものがあり、有司はこれを唐の大暦中の成都の瑞木の「天下太平」の文とかなり同じものだとし、太平の兆であろうとして史館に付すことを乞うた。五年三月、久旱により中外に詔し有司に祈祷を命じた。十一月壬寅、京師の相国寺が火事になった。十二月丁丑、霜が木に附いた。これより先、童謡があって「青山転転山青、耽誤尽少年人」と言い、これはこの時人が皆兵となり山谷で転戦し戦伐が止まず老いに至ることを言うものであった。

元光年間

  • 元光元年(1222年)四月、京畿が旱した。十月、上が近郊で狩りをし白兎を獲ると群臣はこれを瑞と為し、明日便殿に御して鈴をその項に置いて放そうとしたところ兎は驚躍して止まず忽ち机上で斃れた。二年正月辛酉、日の午に鶴千余が殿庭を翔り時をおいて去った。七月乙卯、丹鳳門が壊れ圧死者数人。十一月、開封で虎が人を害した。この時屡々妖怪があり、二年の中に白日虎が鄭門・吏部に入り、宮中に狐狼があり鬼が輦路で夜啼き、烏鵲が夜驚いて飛鳴し天を蔽った。十二月、宣宗が崩じた。

哀宗年間

  • 正大元年(1224年)正月戊午、上が初めて視朝し太后を仁聖宮皇太后、太元妃を慈聖宮皇太后に尊ぶと、この日大風が端門の瓦を飄し昏霾で日が見えず黄気が天を塞いだ。仁聖はまた乞丐が万を数えその後を踵する夢を見て心にこれを悪んだ。占者は「后は天下の母、百姓が貧窶であれば将に誰に訴えようか」と言い、遂に京城に粥と氷薬を設けてこれに応じるよう勅した。人はこれを壬辰癸巳の兆と為した。またある人が麻衣を着て承天門を望み大笑すること三たび大哭すること三たびあり、有司がこれを拘えて問うと、その人は「我は先に笑ったのは許大な天下に将相の人がないことを笑い、後に哭したのは祖宗の国家がここに破蕩したことを哀んだのだ」と言った。有司はこれを妖言とし重典に処そうとしたが、上は「近ごろ草沢の士に竝びに直言を許す詔があり、たとえ譏訕に涉ってもまた治罪しない、況やこの人の言はまた理がある、ただ闕下で笑哭すべきでなかっただけだ」と言い、乃ち杖に処した。二年正月甲申、黄黒の祲があった。四月旱し、京畿で大雨雹があった。三年春、大寒があった。三月乙丑、火が吏部の中より出て斛のように大きく流行展転し人が皆驚き避けたが時をおいて滅した。四月、旱蝗があった。六月、京東で雨雹があり蝗が死んだ。四年六月丙辰、地震があった。八月癸亥、大風が左掖門の鴟尾を吹き丹鳳門の扉を墜として壊した。この日、風霜が禾を損なうこと皆尽きた。五年春、大寒があった。二月、雷があって雪が降り木の華のものは皆敗れた。四月、鄭州で大雨雹があり桑柘が皆枯れた。京畿が旱した。八月、御座の上で言うような者があって「放捨しなければ何を索めても見えぬぞ」と聞こえた。七年十二月、新衛州の北三里許りに旧衛州城の状のような影が沙上にあり寺塔も宛然として数日にして乃ち滅した。

天興年間

  • 天興元年(1232年)正月丁酉、大雪があり、二月癸丑、また雪があり、戊午、また雪があった。この時、鈞州・陽邑・盧氏の兵は皆大敗した。五月、大寒で冬のようであった。七月庚辰、兵刃に火があった。閏八月己未、矢が宮中に射入した。九月辛丑の夜、大雷があり工部尚書富聶遜が震死した。二年六月、上が蔡に遷り歸徳を発してから連日暴雨があり平地の水は数尺に及び軍士が漂没し、蔡に至って始めて晴れると復た大旱すること数月、識者はこれを不祥とした。初め南京が未だ破れなかった一二年の間、市中にある僧が所従来の知れぬまま布嚢に棗を貯え日に市の人に散じ窮まる所がなく所在の児童百十人がこれに従った。また一人が街中の破瓦を拾ってはまた石でこれを撃ち砕くという行為をし、人は皆これを狂と思いその理を暁らなかったが、後にようやくこれを知った。その意はおそらく人を早く散らせ国家を将に瓦解させようとするものであったろう。